花の中の花 4章

ギターとピアノ

 フルーは酒場にいた。
 商業地区にあるその酒場は、日が暮れる少し前に開店する。ここは港で働いていた船乗り、人足、異国の商人など様々な人々が集まる社交場だ。
 言葉が通じない者も多い中、酒と店内に流れる音楽が彼らの一日の疲れを癒してくれる。少ないつまみを肴に酒を豪快に飲む。ここはそういう場所だ。
「フルーちゃん、次は三番テーブルにこれ持って行って」
「はーい」
 フルーは、厨房から上がってきた料理の皿とビールのジョッキを受け取ると、気合を入れてそれら全てを持ち上げる。
「おまたせしました。ビール四つに、本日のおススメ、イカのからっとリング揚げです」
 言葉の語尾を上げて笑顔で注文の品を読み上げる。そして素早くテーブルに料理を並べると再び笑顔のサービス。
「以上で、ご注文はお揃いですか?」
「ああ、ありがとうよ」
「ごゆっくりどうぞ」
 お盆を両手で抱えると、挨拶をして引き上げる。
 本日のフルーの出で立ちは、白のブラウス、水色のジャンバースカート、そして酒場から支給されたフリル付きのエプロンだ。少々癖のある金色の髪は、いつもならば適当に括っているのだが、今日は複雑な編み込みに結い上げられており、髪の端には空色のリボンが飾られている。そして頬にはチークが載せられ、唇にはピンクのルージュが引かれている。つまり彼は、酒場でウェイターいや、女装をしてウェイトレスとして働いている。
「フルちゃん、こっちも注文頼む」
「はーい、伺います!」
 呼ばれた方に手を振る。室内は他のウェイトレス達も忙しそうに動き回っているので、料理にぶつからないよう、気をつけながら小走りでフロアを移動するのだ。
「お待たせしました。ご注文伺います」
 フルーはエプロンのポケットから伝票と鉛筆を取り出し、これでもかと笑顔を振りまく。その徹底した女装と眩い笑顔のお陰で、彼女は気づけば船乗り達のアイドルになっていた。
 ――なぜこうなった!
 フルーは笑顔の裏で、特大の疑問符を打ち立てていた。
 それは、話せば長くなる。話は丁度一週間前に遡る。
 ダニエル=フィノがクロードに持ってきた仕事がすべての事のはじまりだった。
 
 ダニエルの話と書類の報告書では、ここ数週間、商業地区で器量の良い女性が忽然と姿を消すという事件が頻発しているそうだ。
 その被害者数は届けがあるだけで既に十人を軽く越しており、商業地区の世話役から役所に助けを求める訴えがあった。まず被害者家族に事情を聞いてみたところ。誘拐ではない事が分かった。誘拐ならば身代金の要求があるはずだが、そういった連絡は無いそうだ。そして被害者の家は、決して裕福といえるものではなく、日々の生活を慎ましやかに送っている家族ばかりだった。そうなると誘拐の線は消える。
 家出や駆け落ちなどの可能性も視野に入れたがその線も薄い。通り魔などの事件に巻き込まれたのであれば、死体が上ってもいい。目撃情報さえない。
 そうなると残りは一つ、人身売買を目的とした人攫いだ。そうなれば早急に手を打たなければ、攫われた女達の末路は火を見るより明らかだ。外見を重視して集めているとなると、女性が体を売る花町や金持ちの愛好者辺りに売り飛ばされるのが関の山。国外に出されてしまってはもう助け出すことは出来ないだろう。
 ダニエルは同じ女性として、そんな事は許されないと憤慨した。そしてある提案を打ち立てた。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず。今回は私が囮になって、人身売買の組織をおびき出そうと思うの」
 何を言い出すと思えば、既に商業地区で段取りをつけてきたといのだ。
「ダニエル、何を言っている!」
 クロードがテーブルを打ち叩く。
「何よ。私の容姿じゃ、誘き寄せられないとか言いたいの? 私だって少し綺麗に着飾れば……」
「違う! 俺が言いたいのは、ダニエルお前の身に万が一何かあってみろ!」
「大丈夫よ、そのためにローレンにこの仕事依頼しているんじゃない。ボディーガードをお願いします」
 クロードの特技は机上で行われる仕事だけではなかった。クロード宅の一階リビングの暖炉の裏には、一振りの剣が置かれている。その剣は大振の両刃剣だった。柄を入れるとかなりの重量があり、フルーは試しに持たせてもらったが、両手で持ち上げるのがやっとだった。
 クロードは、その重い剣をまるで鳥の羽を振るうかのように軽々と取り上げ、戦慄が走るような太刀筋を繰り出すことが出来る。この剣一本で街道の夜盗や犯罪者を一人で蹴散らす姿は、街では有名らしい。
 この魔族は、何でもそつなくこなすので、欠点を見つけるのが難しい。
「でもダニエル、いくらクロードが守るとはいえ、僕も大切な友達に何かあったらと思うと生きた心地しないよ」
「絶対駄目だ! この案は呑めない。もしダニエル、お前に何かあってみろ、俺は死んだヴィクトルに顔向けが出来ない」
 クロードは、ダニエルの祖父の名前を持ち出した。ダニエルもその名前を持ち出されると弱い。ダニエルはしばらく何かを考えているのか押し黙ると、ゆっくり会話を再開させる。
「ローレン、ズルいわ。お祖父ちゃんの名前を出すなんて……じゃあ、どうすればいいのよ! あんな人が多い場所で、囮を出さないで一味を探せると思うの?」
「それは、だな……」
 ダニエルの言うことも分からなくはない。
「他に誰か囮をやってくれるというなら、私も裏方に回るわ、でも適役がいないのよ! 私は役所の女性陣に、危険だと分かっている事をやって欲しいとは頼めないわ」
 ダニエルは、本当に心根が優しい。彼女の地位ならば、部下に命令する事も出来る。上に立つ者は、時に冷徹に判断をくださなくてはいけない。しかし、それがまだ出来ないダニエルは、自分の身を差し出す選択をした。
 クロードはテーブルに肘をついて、険しい表情でしばらく何かを考えている。
「ダニエル、囮の条件要項は何だ?」
「そうね、今まで姿を消した女性の共通点は、十代の若い子、器量が良くて、容姿が整っている子だから、外見は重要ね。あとは作戦を理解してくれて、犯人が接触してきて、警備隊が駆けつける間、自分の身を守れれば合格かしら」
「なるほど、人目を引くような容姿で、それでいて何かあったとき、最低限自分の身を守ればいいのか?」
 クロードは、しばらくダニエルに視線を固定していたが、ふいとフルーの方を見る。
「いるだろう適役が」
 ダニエルは、最初クロードの言葉の意味がよく分からないという顔をしていたが、突然椅子から立ち上がった。
「……あっ!」
 そして人差し指で宙を指す。その指の先にいるのはフルールだ。
「……ダニエル、何?」
「居たぁ!」
「外見は、まあご覧の通り。いざとなれば脱兎のごとく逃げられる脚力もある」
「はい?」
 フルーは、話の趣旨が分からなかった。ただ二人から注がれる期待に満ちた視線が、これから言われるであろう事を予測した。
「……もしかして僕? ……えっ冗談だよね?」
「ローレン、体形を隠せる服と……あとは多少メイクを施せばいいかしら。やり過ぎるのもどうかと思うのよね」
「悪いが、その辺りは任せる」
「……そうね、やっぱり丸みは欲しいわよね。そこはパットを入れて、スカートは、清楚な丈の方が男性受けいいのかしら……それから」
 ダニエルは、フルーを真剣に見つめ、何か恐ろしい呪文のような独り言を口にしている。
「本気なの! 僕、こう見えても男だよ?」
 フルーはそれから後の記憶がすごく曖昧だ。その後、ダニエルとなぜかロクサーヌまで加わって、女性物の服を用立てて来た。フルーは、二人に着せ替え人形のように、次々と女性用の衣装を着せられた。その度に、女性陣の歓声が上がる。装飾品は、クロードが自分の持ち物から女性用にも使えそうなもの選んできた。
 フルーの意識は、完全にどこかに飛んでいた。
 今思えば、ダニエルがお茶をおごると言った辺りから嫌な予感がしていたが、まさか女装をさせられる事になるなんて夢にも思わなかった。
「フルー可愛い! これなら絶対大丈夫よ」
 無事メイクが終わると、ダニエルは姿見を運んできた。
 フルーは、恐る恐る覗き込んだ姿見に写る自分の姿に絶句した。
 自分では認めたくないと思っていたが、鏡の前には完璧な美少女が立っている。フルーは鏡の前で手を動かしてみた。手はきちんと付いてくる。これは紛れもない自分自身だ。フルーは乾いた笑いをあげる。
「か、完璧だね……」

 酒場は、ダニエルの知り合いのオーナーが経営しており、事前に話を通してあったため、フルーはすんなり酒場のウェイトレスとして入り込めた。
 入り込んだはいいが、この一週間本気でウェイトレスの仕事をさせられている。ビールのジョッキ5つを同時に運ぶのは力とコツがいる。そして慣れないパンプスは、毎日足が拷問を受けているようだった。女性はよくこんなものを履いて歩いていると尊敬せずにいられない。
「おねぇーちゃん、今日もかわいいな」
 料理で両手がふさがっていたフルーの尻を船乗り達が撫でてくる。それはもはや恒例行事となっている。
「……きゃっ、もう止めてよ! 落としたらどうするの!」
 フルーは、女性らしく男性客に抗議をする。
 ――あまり深く考えるのはやめよう。
 フルーは自分に言い聞かせていた。
 今は、酒場のピークの時間帯だ。上手く切り盛りすることだけ考えよう。多くの事を考えると、頭がパンクしてしまいそうなので、目の前の事だけ考えることにした。
「女の子達、今日は歌か踊りはやらないの?」
 来ましたお客の無茶振り。酒場には小さな舞台がある。その横にピアノやギターなどが並んでおり、ちょっとしたショーが出来るようになっている。たまに流しの歌手や踊り手さん達が披露するが、毎日というわけではない。
 今は、ピアノ弾きとギターが室内に楽しげな音楽を奏でている。
 こういう日はウェイトレスの女の子達が何か出し物をする。フルーは新人なのを理由にこの要求から巧みに逃げていた。しかし今日は同僚のウェイトレスに腕を捕まれ舞台に引っ張り出された。
「あなたももう踊れるわよね?」
「無理、無理、無理!」
 フルーは抵抗するが、同僚達の波に巻き込まれ、舞台中央に押し出される。
 ――配膳ならまだしも、踊りとか本当に無理ですから!
 ここまで抵抗するのには、訳があった。フルーは歌を唄ったり踊りを踊った事がない。正確には、その記憶がない。
現在までで歌と踊りに関する記憶は、アルデゥイナの夏のカーニバルで踊り子さん達が踊っていたのは見たのと、近所の小さな酒場で酔っ払い達が歌うのを眺めていた程度の記憶しかない。経験値が圧倒的に足りないのだ。
「おーい。女の子達が踊ってくれるらしいぞ!」
 男達の口笛と歓声が酒場の中に響き渡る。
「景気良いのを一曲頼む」
 室内の音楽がガラリと変わる。音楽の事はよく分からないが、ピアノのテンポが変わり聞き鳴れたメロディーが流れ始めた。
――あ、この曲。
 たまにクロードやドクターに連れ出されて訪れる酒場でよく弾かれている曲だ。題名は知らないが、この曲になるとみんなが踊り出す。きっと有名な曲なのだろう。
 酒場に流れる演奏は、ピアノとギターの生演奏だ。そろいのエプロンをつけたウェイトレス達は曲に合わせて、くるりとターンをして手を叩く。ヒールの底を打ち鳴らしてステップを踏む。よく見ればあまり難しい事はしていない。「ほら、こうやって、こう分かった?」
 隣で踊っていた子が見かねて、立ったまま動けないでいるフルーにステップを教える。
 フルーはその動きを何度か見てから、意を決したのか、はたまた諦めたのか周囲と同じステップを踏み始める。
 女性達は音楽に合わせて輪になって踊る。みんなとても楽しそうだ。実際フルーも少し楽しくなっていた。
 クライマックスは音楽が早くなって、ステップも早くなる。そして最後は全員で決めポーズ。
「ありがとうございました!」
 室内に拍手と歓声が上がる。
「いいぞー!」
 フルーも歓声に答えて手を振る。迂闊にも楽しんでしまった。まあ、普段の自分を知るものが見ていなければ、いいと思った。
 舞台から降りたフルーは、カウンターの方に進んだ。
「お疲れさん」
「店長、お疲れ様です」
 店長はそう言うと、舞台に出た女性達に、氷の入った水のグラスを配った。汗をかいたのでこれはありがたい。フルーはグラスを受け取ると、口を付け一気に口に運んだ。
「……っこれって!」
 グラスの水を飲み干すと、喉の奥が急激に熱くなる。そして顔は火が付いたようにカッカしてくる。フルーが飲んだものは水ではなかったようだ。
「店長、これは何ですか!」
「あれ、フルーちゃんは、ジントニック駄目だった」
 隣にいた同僚にグラスの中身を教えられた。舞台で踊った子は店長からお酒を一杯ご馳走してもらえるそうだ。今日はたまたまジントニックだったらしいが。フルーは水と間違えて、グラスの半分以上を飲み干してしまった。しかもこれは、かなりジンの割合が多い。
――ま、まずい
 フルーはカウンターの隅にへたり込んだ。
「おいおい、大丈夫か?」
「はぃい」
 実はフルーはお酒に弱かった。少しなら飲めるが、踊って喉が渇いたところに強めのお酒を一気に流し込んだので、酔いが一気に回ってしまった。
――失敗した
 脈拍が早くなり、目の前の景色が歪んでみえる。
「そうか、悪い悪い、君は酒に弱かったか、少し裏で休んでくるといいよ」
「そうしますぅ」
 
 
    * * * *

 フルーは店の裏手で酒の酔いを醒ますことにした。
 アルデゥイナは、もうすぐ夏も終わろうとしている。しかし、日が落ちてもまだまだ昼間の熱気が残っている。地面の石畳が温かい。
 おまけに港の周辺は潮風が強いため、肌がべたつく。汗ばんだ体が気持ち悪い。フルーはパンプスを脱ぐと、手近にあった。酒樽の上に腰を下ろした。
 そして、スカートの裾と両膝を抱え込むと、樽の上に両足を乗せた。パンプスを脱いだつま先からじんわりとした痛みが広がる。フルーは、頑張っている自分の両足を手で擦ってやる。あまりお行儀の良い恰好ではない。
 丁度そこに、先ほど舞台横でギターとピアノを演奏していた二人が休憩に入ったのか、フルーの前を通りかかる。フルーは、慌ててスカートの裾を整えると、樽の上に乗せていた足を地面に下ろした。今の格好は、女性として、ははしたない格好だ。今のフルーの使命は人目がある場所では、女性を演じることだ。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
 フルーは努めて高い声を出す。
「君、大丈夫? 顔が真っ赤だよ」
 ギターを弾いていた方が声を掛けてきた。青みの強い髪に、愛嬌のある優しい顔付きの青年だった。舞台用の少し派手なジャケットを、嫌味なく着こなしている。フルーの様子をみて、心配をしてくれているようだ。
「はい大丈夫です、少し休んだら復帰します」
「そう、また今日みたいに踊ってね」
「機会がありましたら。いつも演奏素敵です」
 フルーは社交辞令的な感想を述べる。
「ありがとう」
 そういうと、ギター弾きの方は通り過ぎていった。
 続いてピアノを弾いていた黒服、黒メガネの男性が、無言でフルーの前を通り過ぎる。何も言わない彼はフルーの横にある樽の蓋に、何やら一本の瓶を置いた。
 よく見るとその瓶のラベルには「水」と書いてある。
 なんとフルーに水を分けてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます」
 フルーは礼を述べるが、ピアノ弾きの青年は何も言わず去っていった。
 親切な人もいるものだ。フルーは、水の入ったビンを掴むと樽の上に座り直した。
 フルーはあと何日ここで働く事になるのか考えていた。
 体を動かすのは嫌いではないが、今まで働いてきた環境と全然違うため、少々疲弊していた。
 ダニエルから、ここで働いた給金は貰ってよいと言われている。どれくらいもらえるのだろうか。今はそのお金の使い道を考えるのが唯一の楽しみだった。
 フルーは、いろいろ考えるがコレという物が思い付かなかった。
 ぼんやり空を見上げてみると、東南の空に地上を煌々と照らす丸い月と出会った。
――どおりで明るいと思った
 今日は満月だ。こんな月明かりの明るい晩に人攫いなんて出るのだろうか。
 月の前を雲が移動してゆく。フルーは気が付くとその雲を目で追っていた。それはまるで白い紙に黒いインクを零したときの筋のようだ。
「そうだ、万年筆が欲しいな」
 フルーはいつも書類を書くとき付けペンを使っている。長い文章を書くときなど、インクを付けたし書くのはとても面倒だった。その点、万年筆はインクが中に内蔵されている。クロードやドクターが持っているのを見て、凄く憧れた。しかし万年筆一本の値段は、フルーの一月分の給金に相当する。とても手が出せるものではない。しかし、万年筆があればインクを零して書類を書き直すこともなくなる。仕事が楽になるし、早く仕上げられる。
「お給料いっぱい貰えるといいな」
 蓄えを足して、一番安い物に手が届けばいいのだが。
 フルーは、笑いが込み上げてきた。
 なぜ今、クロードの助手の仕事などを考えているのだろうか。自分がおかしかった。
――早く帰りたいな
 出来る事なら、自分の寝床で寝りたい。フルーはこの一週間、この格好のまま昼間は酒場の周辺を歩き回り、夜は酒場で仕事。朝方、酒場の二階の事務所のソファーで仮眠を取る生活をしている。
 フルーの部屋は、クロードの家の二階にある。元はクロードが納戸として使っていた部屋なのだが、綺麗に片付けて使っている。
 部屋は、ベッド、書き物が出来る小さな机と背の低い棚があるだけの殺風景なものだ。しかし、フルーは今その空間が恋しくてたまらなかった。いつもならばこの時間は、ベッドの背もたれに寄りかかって本を読んでいる。楽しいお話の本を読みながら、眠くなるのを待つのだ。
――駄目駄目、考えるのやめよう。
 これではホームシックだ。
 フルーは、先ほど貰った水の入った瓶に口を付けようと思った。しかし、それは出来なかった。突然何かで口を塞がれ、数人の人間の腕がフルーの体を抑える。
「んっ!」
――これは薬品だ。
 フルーは抵抗しようとした。だが気が付くのが少し遅かった。薬品を吸い込んでしまい意識が暗闇の中に落ちて行くのが分かった。周囲の音が遠のいてゆく。フルーは意識を失う寸前、心の中でガッツポーズをした。
――よし、かかった!
 
    * * * *

 目が覚めたとき、酷い頭痛に襲われた。
 これは気を失う前に飲んだ酒のせいだろうか。それとも嗅がされた薬品のせいだろうか。フルーは、痛む額を押さえたかったが、両手首を背中側に縛り上げられているため、動かすことが出来なかった。
「目が覚めた?」
 背中側から声がした。縛られている上、床の上に転がされているため、声がする方を容易に見ることが出来ない。
 フルーは頭が痛むのを我慢して、背中で床を這い、勢いを付けて起き上がる。
「……いたたたっ、ここは、どこ?」
 この質問は、正しいものだと思えないが、声の方に質問を投げかけてみた。
「どこかの倉庫だよ。お前攫われたんだ」
 室内は明かりがなく、唯一の明かりは高窓から差し込む月の光だ。雲が薄らぎ室内が明るくなる。
「君は……」
 声を掛けてきた人物の顔が見えた。どこかで見覚えのある碧玉の瞳とまっすぐな金髪がこちらを見ている。
「あっ!泥棒少女!」
 そう、目の前にいたのは一週間前フルーが捕まえたひったくりの少女だった。
「お前あのとき邪魔してきた奴かよ!」
 少女もフルーの事を覚えていたようだ。あの時とはだいぶ服装が違うが、どうやら同一人物と認識してくれたようだ。
「ははは……こんな所で会うなんて奇遇だね」
 少女は外見に合わない粗悪な口調で話をする。
「ジョゼ、あなたまた人様のものに手を出したの!」
 少女との会話に新たな人物が加わる。ジョゼと呼ばれた少女の丁度背後に、もう一人女性がいた。
「お姉ちゃん!それは」
「あれほど、駄目だと言ったでしょ」
 青い顔をした栗毛色の美人が、倉庫の荷物に寄りかかってこちらを見ていた。肩で息をしているらしく、とても苦しそうだ。
「君、大丈夫? どこか具合でも」
「お姉ちゃんは体が弱いんだ! こんなところにいたら病状が悪化するのは当たり前だろう!」
 お姉ちゃんということは、彼女の姉なのか。確かに髪の色以外は良く似た姉妹だ。だが姉の方は妹と違ってとてもお淑やかだ。フルーは周囲を見回すと、十数人の女性が倉庫に押し込められているのが確認できた。彼女達の目はうつろで、力なく床の上に横たわっている。全員が、希望を閉ざされ絶望に落とされたような表情をしている。フルーはさらに室内の様子を注意深く観察する。室内の環境はかなり劣悪だ。床の上には水と食料らしきものが置いてあるが、それらにはハエが集っている。空気は淀み、鼻を突く異臭がする。こんな環境では、体調も悪くなるのは当たり前だ。
 その中でも泥棒少女いや、ジョゼと呼ばれた少女のみ意思の強い瞳を輝かせている。それはきっと姉の存在が大きいのだろう。自分が病弱な姉を守らなければという使命感が彼女を強く輝かせている。
「君の名前、ジョゼでいいのかな? ちょっとこっちに来てくれないかな」
「なんだよ」
 ジョゼはフルーを怪しい者を見るかのような目で見ている。
「今は、いがみ合っている場合じゃないだろう。協力してくれないかな」
 ジョゼはしぶしぶフルーの傍に動きが不自由な体を動かしてくる。
「ありがとう。それで一つ頼みがあるんだけど、あの窓から外を見てくれないかな?」
 窓とは、明り取り用に設けられている高窓のことだ。
「お前馬鹿じゃないのか、あの高さ届くわけないだろう」
「何も一人でと言っているわけじゃないよ、君を僕が担ぐから覗いてきてほしいんだ。身軽な君なら簡単な事だろう?」
「……それなら」
 足を縛られていなかったのはラッキーだ。猿ぐつわをされていないのも幸運なのか、しかしそれは大声を出しても外には音が漏れないという事を示す。
 フルーは体を捩りながら立ち上がる。手を後ろに縛られているので、立ち上がるのに少々体がふらついたが、立ち上がるコツは分かった。
「いいかい、無理はしなくていいよ。窓の外を見てここがどの辺りか確認すればいいから」
「ま、いけるだろう」
 フルーは、窓の下に膝を付き踏み台になった。ジョゼは、そんなフルーの背に片足を掛けると、一気によじ登った。両手が縛られ不自由だというのに、絶妙なバランス感覚だ。
「何が見える?」
「……煙突」
「他には」
「んー……工場の煙突が二本並んでいて、あとは建物の屋根と……」
「どの辺りだか分かるかい?」
「たぶんこの風景なら、港に近い第二工場地帯だよ」
 そう言うとジョゼはフルーの肩から飛び降りた。
「そうか」
「なんでそんな事が知りたいんだ?逃げ出す方法でも考えているのか?」
「ちょっとね……」
「なら、オレも手伝うぞ。お姉ちゃんを一刻も早くここから出したい」
「ありがとう」
 フルーは、今の状況から逃げ出す事は残念ながら難しいと考えていた。
 部屋をよく観察すると、部屋の広さは十メートル四方の壁で覆われている。床は木製だ。床の音から下には部屋がありそうだ、最低でも高さは二階以上ということになる。
 窓の近くに荷物が積み上げられているが、これを使って窓までよじ登ることは可能かもしれないが、窓が小さすぎる。小柄のジョゼでも通り抜けることは難しいだろう。
 そして出口は頑丈そうな鉄扉が一つ。フルーはそっと扉に近づくと戸に耳を付けた。外には人の動く気配と金物がぶつかる音がする。武装した見張りが数人いるに違いない。
 今は極力危険な事は避けなければいけない、まずは残り時間がどのくらいあるか知りたい。
「ジョゼ、君とお姉さんは何日前にここに連れて来られたの?」
「たぶん四日前だよ」
「他に女の人がいるけど、皆はどうかな? どこかに連れ出されたりしてない?」
「オレとお姉ちゃんが来たときは、もうずいぶんな人数が押し込められていたよ。まだ誰も外には出されてないよ」
「そうか」
 どうやら売られる前に間に合ったようだ。しかしそうなるといつ女性達を連れ出すか分からない。他国に売り払うなら船が必要だ。これだけの人数を船に乗せるには夜がいいだろう。今はその夜。ただ今日は満月だ。こんな明るい晩に危険な橋を渡る者はいないと思うが、反対に意表を付くにはいいかもしれない。
 それから今はいったい何時なのだろうか、フルーが攫われて目を覚ますまで、どれくらいの時間が経過したのか知りたい。
「あとは時間か……」
「なんだよさっきから質問ばかりしてさ。少し教えろよ」
「いいかいジョゼ、皆をまだぬか喜びをさせたくないから、これから話すことは黙っていてくれるかい?」
「お姉ちゃんにもか?」
「そうだよ。出来ないなら話せない」
 フルーはジョゼの瞳をじっとみた。強い光を放つ碧玉の瞳がこちらを見ている。
「わかったよ」
「約束だよ……もうすぐ助けがくる」
「本とっ……」
 フルーは大きな声を上げそうになったジョゼに頭突きをする。手が塞がっているので、この処置は仕方ない。
「痛てぇな何するんだよ!」
「シーッ! 外の見張りに聞こえたらどうするんだ!」
「わ、悪かったよ」
「いいかい、僕は皆が閉じ込められている場所を探すために、わざと捕まったんだ。囮になったんだ。ここまで理解出来た?」
「それって……つまり?」
「そう、もうすぐ僕が連れ込まれた場所を確認して、武装した警備隊が助けにくる手筈だ」
 フルーは商業地区の地図を思い浮かべていた。先ほど自分が居た酒場からジョゼが教えてくれた場所を考えると、少し距離がある。ダニエル達張り込み部隊と警備部隊は酒場近くの一室に身を潜めている。その場所からこちらに付くまで時間が掛かるはずだ。
「じゃあ、オレやお姉ちゃんは助かるのか!」
「上手くいけば全員助かる。それには時間が欲しい」
 ダニエル達はフルーが攫われたのに気づいているだろうか。
 フルーは一瞬頭の中に不安がよぎった。
 手筈では二十四時間フルーの周辺を監視していることになっている。ここは皆を信頼して待つしかない。
「わかった、つまり時間稼ぎだな」
 ジョゼはそう言うと目を輝かせた。
「あまり派手なことはしないで静かにしていればいいから」
 そのときだった。ジョゼの背後から誰かが酷く咳き込んでいる音がする。
「お姉ちゃん!」
 ジョゼは立ち上がると姉の近くに寄り添う。
「大丈夫? お水飲む?」
 フルーもジョゼの姉の横に腰を下ろす。
「ジョゼ、お姉さんの名前は?」
「オルガ」
「オルガ体を横にして、背中を向けてごらん」
 オルガは咳き込みながら、フルーに背を向ける。フルーは後ろ手からオルガの背中を擦る。手をロープでしばられているので、上手く擦ってやることも出来ないが、オルガは少しずつ咳が小さくなる。
「……ありがとう……もう、大丈夫」
 か細い声で礼を言われる。
 ジョゼの姉オルガはジョゼによく似ている。栗色の髪に碧玉の瞳を持つ美人だ。しかしその顔色は悪く土気色をして、額に大量の汗を浮かせている。咳こみ体力を使ったのか目もうつろだ。素人のフルーが見ても病状が重そうなのが分かる。
「ジョゼごめんね」
「謝らないで、私は大丈夫だから」
 ジョゼは姉の前では、虚勢を張らないのか少女らしい口調になる。これが彼女本来の姿なのだろう。
「お姉ちゃん、もう少し頑張って」
 ジョゼは姉の胸に額を付けて、甘える。フルーはそんな二人を見ていて、鼻の奥が熱くなる。迂闊にも涙が出そうになってしまった。
――絶対助けるから
 しかし自分には、助けが早く来てくれと祈る事しか出来ない。なんてもどかしいんだ。
 そんな時だった。部屋に唯一ある鉄の扉が錆びた嫌な音を立てながら開いた。そして数人の男達が室内に大きな音を立てて入ってくるのが見える。
 女性達は、体を強張らせ息を殺して男達が通り過ぎるのを待つ。
 なんと男達は、フルー達の方まで進んでくると体を横たえているオルガを見下ろした。
「お、この女まだ生きているぞ」
「結構しぶといな」
 男達は弱っているオルガに向かい、寄って集って酷い言葉を投げかける。
「お姉ちゃんに近寄るな」
 ジョゼは姉と男達の間に体をすべり込ませると、歯をむき出しにして威嚇をする。その姿はまるで夜行性の小動物のようだ。しかしジョゼの体は、男達によって軽々とどかされる。そして、男の一人がオルガの髪を掴み持ち上げる。
 オルガは、聞き取れないほど小さな声で悲鳴を上げる。
「お姉ちゃんに触るな!」
 ジョゼはその小さな体で、屈強な男達に果敢に食らいつく。
「ガキは引っ込んでろ」
 そういうと、一人の男がジョゼのわき腹を蹴り飛ばす。彼女の軽い体は有に数メートル吹っ飛び壁に激突して止まった。
「ジョゼ! 何をするんだ!」
 フルーは急いでジョゼに近寄る。腹を蹴られたジョゼは、胃の中のものを床に吐き出していた。といってここ数日まともに食事をしていない彼女は胃液を吐き戻すことしか出来ない。
「ジョゼ、ゆっくり息をするんだ」
 フルーはジョゼの傍に寄り添うことしか出来ない。
「……おねぇ……ちゃ……ん」
 ジョゼは綺麗な瞳から涙を流す。それは痛みと悔しさの混ざった涙だ。フルーはか弱い女の子に暴力を振るう野蛮人達を睨み付ける。
「あなた達! 私達は大切な品物でしょ。手を出していいわけ!」
 フルーは、自分が出せる一番高い声を出して、女性の振りをする。ここで怒りにまかせてしまい、自分の正体がばれてしまっては、元も子もない。
「なんだよ。だから顔は蹴らないでおいたさ」
 そういうと男達は一斉に笑い出す。何がおかしいと言うのだ。
「さあ、お前はこっちに来い」
 男達はオルガの腕を掴み引きずり上げる。彼女は抵抗する力も残っていないのか、無抵抗に引きずられている。
「何をするんだ! 彼女は具合が悪いんだぞ!」
「ああ、知ってるさ。このままにしていたら直に死ぬだろうな」
「だったらどうして! こんな酷い仕打ちをする!」
「そうだな、死んだら海に捨てるんだ。こんな美人生きているうちに味合わないと勿体ないだろう。なあ?」
 男達はお互いの言葉に同意を求め、ニヤニヤと笑いだす。
「滅多に出会えない上玉だよな。楽しませてくれよ」
 フルーは、この男達がオルガに何をしようとしているのか、分かってしまった。男達の間で彼女を回す気だ。なんておぞましい所業だ。そんな事をしたら、彼女は確実に死んでしまう。
「やめろ!」
「なんだよ、俺達は売り物にならない女を有効活用しようってんだ。感謝してもらいたいくらいだよなぁ」
「どうせ死ぬんだ。死ぬ前に楽しんだ方がいいさ」
 背後からジョゼの泣き声にならない声が聞こえる。フルーは、時間を稼ぐためだと自分に言い聞かせ、今にも飛び出して行きたい気持ちを必死に抑えていた。だがもう我慢の限界だった。
「その汚い手を離しやがれ!」
 フルーは叫ぶと同時に立ち上がり駆け出すとオルガを引きずる男の腕に噛み付き、怯んだ隙に彼女を自分の背にかばった。
――くそっ、もう少し時間を稼ぎたかったのに。
 心の中で愚痴を溢したが仕方がない。体が動いてしまったのだから。手は縛られて自由にならない。でも足は動かせる。
「この女、何しやがる!」
「変わりにお前が相手をするか?」
「いやだね」
 それは不味い。この服を脱いだら正体がばれてしまう。もう少しだけ時間を稼がないといけない。
 フルーは、口の中が血なまぐさいので、唾を床に吐き捨てる。どうやら男の肉まで噛み切ってしまったらしい。
「こいつ! 俺の腕を!」
 腕を噛まれた男は、怒り狂い腰に下げていた剣を抜いた。
「おい、品物に傷をつけると、ばあさんに怒られるぞ」
「また補充すればいいだろう」
 男の目が血走っている。完全に怒らせてしまったみたいだ。フルーは、立ち上がると室内に逃げ場を探す。しかしすぐに男達に退路を塞がれる。
 剣を持った男は、フルーとの距離を少しずつつめる。
「悪い子はお仕置きだ」
 そういうとフルーに剣が振り下ろされる。フルーは咄嗟の判断で剣の軌道から逃げられた。しかし、剣ばかり気にしていたので、他に意識が向いていなかった。別の男がフルーを捕まえた。
「……っ」
 男はフルーの首を捕まえ締め上げた。そしてそのまま天井の方へ持ち上げる。フルーの足が床から離れ宙吊りにされる、これでは息が出来ない。フルーは必死に足を動かすが、空を掻くだけで床には届かない。
「死に掛けている方より、こっちの方が活きがいい。お前俺の女にならないか、良くしてやるぞ」
 目線が同じ高さになった男は、フルーの顔に自分の顔を擦り寄らせてくる。
 ――誰が!
「……き、気色……悪いんだよ!」
 フルーは、握られている喉から声を絞り出した。ありったけの力で体を揺らし反動をつけて男の腹を力いっぱい蹴りつけた。
「うあっ!」
 運よくフルーの踵は男の鳩尾に入ったようで、男は苦痛に顔をゆがませフルーの首から手を離した。フルーの体は宙に放り出される。
 咄嗟に受身と取ろうとしたが、両手を縛られた無理な体勢からの受身は、体術の経験がないフルーには無理な事だった。フルーは左肩から床の上に落ちる。自分の体重と重力が合わさった衝撃が片肩に加重される。
「……っ」
 嫌な音と激痛が走った。痛みで頭の芯が少しぶれているが、それを耐えて動く。
 ――動け
 フルーは自分を叱咤すると、歯を食いしばって耐える。しかし喉を強く掴まれていたため、咳が込み上げてきて呼吸が上手く出来ない。酸素不足で朦朧とする意識の中、床の上を這うようにして移動する。
「待ちやがれ!」
 しかし相手は多勢に無勢、フルーを取り囲むと床を這うフルーの背中を容赦なく踏みつけた。
「……んあっ」
 複数人から何度も踏みつけられ、喉の奥から血の味が込み上げてくる。
 声を発することも出来ない。
「よく頑張るな。まだ逃げるか?」
 フルーは途切れてしまいそうになる意識を意志の力だけで食い止めると、せめてもの抵抗に睨み付けてみせるが、その行為は火に油を注ぐようなものだ。男達は薄笑いを浮かべフルーを面白そうに見下ろしている。
「なあ行儀の悪いその足、一本ぐらい切っておいた方がいいんじゃないか」
「そうだな、痛みでおっ死ぬなよ」
 なんという会話をしているのだろうか。
 フルーの鼻先に男達の持つ剣先の白刃が見えた。どうやら冗談ではなく本気のようだ。フルーの脳裏に戦慄が走る。
「動くなよ」
 フルーは、足首を掴まれた。なんとか逃れようと抵抗するが、強く掴まれた足首はびくとも動かない。フルーは最後の一瞬まで諦める気はなかった。だが朦朧とする意識の中、剣が振り下ろされる風の音を聞いて、襲って来るであろう痛みに備え、目を閉じて肩に力を入れた。
 ――助けてっ
 瞬きより短い、刹那。
 
 次の瞬間、想像していた痛みは襲ってこなかった。その変わりガシャンッと鋭い金属音が衝突する音が室内に響く。
 フルーは恐る恐る目を開け、周囲を確認する。すると前には黒い人影が立っていた。よく見えないがその人物が自分に振り下ろされた剣を、同じ白い刃で受け止めていた。
「あっ」
「よく頑張った。ちょっと待っていろ」
 目の前の影は、受け止めていた剣を押し返すとフルーから離れ、部屋の男達に向かってゆく。その人は圧倒的なスピードで剣を振るい、男たちを次々となぎ倒してゆく。室内に断末魔の叫びが響くと、床の上に男達の体が転がる。
 フルーは倒れたまま、それを呆然と見ていた。
「……凄い」
 そうしていると、もう一人別の誰かがフルーの横に近寄ってきた。
「大丈夫、起きられる?」
 背中を支え、体を抱き起こしてくれた。左肩と背中が痛むが、なんとか身を起こすことが出来た。
 フルーの前に現れた青年は、懐からナイフを取り出すとフルーの自由を奪っていた手首のロープを切ってくれた。
「ありがとうございます」
 フルーは、縛られていた手首をさする。
「間に合ってよかった。はじめましてフルー、君の事はダニエルから聞いているよ」
 ダニエルの名前を知っているという事は、味方か。ようやく息が整い始めると、視界がクリアになった。
 フルーは目の前の青年の顔をよく見ることができた。
「もう大丈夫だよ。今、警備隊が突入したところだから」
 そう言う青年の容姿には、どこか見覚えたがあった。
 ――この派手なジャケットの色は……
「あなたは酒場で……」
 そうだ。彼は酒場にいた。酒場でギターを演奏していた彼だ。
「覚えていてくれた? そうギター弾いていた方だよ。俺の名前はエヴァリスト=ジアン。エヴァと呼んでくれ」
「エヴァ、よろしく」
「ダニエルから話には聞いていたけど、フルーは本当に女の子みたいだね」
 こんな事態に陥っているのに、なぜか明るさを失わないエヴァという青年。いったいダニエルは彼にどんな話をしているんだ。フルーはどう返答していいのか困った。
「は、はぁ……」
「ダニエルがあまりにも君の事を話すから、勝手に嫉妬しちゃったけど」
「……嫉妬ですか?」
「おっとこれはまたの機会に」
 エヴァはウィンクをしてみせると、室内に目を配らせた。
「ローレンさん! 大丈夫ですか」
「ああ、全員制圧した。下の奴らに女性の救出に来るよう伝えてくれ」
「了解しました」
 エヴァはそう言い立ち上がると、フルーに――またね。と挨拶をして室内から飛び出していった。
「えっ……クロード?」
 床に転がる男達を足で転がして確認している人影がこちらを振り向く。つかつかと歩いてきたかと思うと、フルーの前に膝を着く。
「またずいぶん危ないところだったな」
 確かに声はクロードのものだ。しかしフルーの目の前にいる彼はいつもと少し雰囲気が違う。
 クロードは、黒い服に黒の少し長めのかつらに、そして眼鏡をかけて変装をしていた。クロードの姿は、街の多くの人間に知れ渡っている。今回の作戦は隠密行動のため、変装をしたのだろう。よく化けていると思う。視界が悪かったとはいえ、フルーは目の前に来られるまで気づけなかったくらいだ。しかし、この格好どこかで見た出で立ちなのだが。
「なんだ、もしかして気が付いていなかったのか?」
 『気づいてなかった』とはどういう事だろう。クロードのこの珍しい姿、どこかに見覚えが……
「……あっ」
 フルーはある結論が頭に浮かんだ。クロードの今の服装は酒場にいたピアノ弾きの方と同じものだ。
「もしかして、あのピアノ弾きは……」
「ああ、結構溶け込んでいただろう。久しぶりにピアノを弾いたが、まだ結構いけるな」
 クロードは右手の剣を床の上に下ろすと、フルーの頭に手を乗せポンポンと撫でる。
「よく頑張ったな。どこか痛むところはあるか?」
 クロードは、普段とは違い優しい口調でフルーに話しかけてくる。フルーは、ポカンと口を空けたままクロードを見上げた。空いた口が塞がらないとは正にこの事だ。
 ではクロードとエヴァは、酒場の傍でフルーの事を見ていた事になる。つまりあの恥ずかしいウェイトレス姿も踊りも一部始終!
 フルーは、最後の最後に特大の衝撃に頭を打ち抜かれ意識が混濁しそうだった。
「ほぇっ」
 自分は今、とてつもなく情けない声を出している自覚がある。
「フルー、大丈夫か?」
「う、うん、大丈夫、いや……駄目かも」
 フルーは自分の発する言葉が変なのは気づいていた。しかし限界まで張り詰めた緊張の糸が切れ、今日一番の衝撃により頭の中が波打ったように揺れ動いている。フルーは、全身から力が抜けてゆくのが分かった。ゆらゆらと体の軸がずれ、体が床の方に傾いた。
「フルー!」
 咄嗟にクロードが両手をさし出したので、フルーは床への激突は免れた。上半身をクロードに預ける形になった。しかし、もう動きたくなかった。瞼が異常に重く感じる。
「……疲れた、寝る」
 不貞腐れた声で、そう言ったのまでは覚えている。遠くでクロードが自分を呼ぶ声がするが、情報処理が追いつかなくなったフルーの意識は、そこで強制終了された。
 
    * * * *

 ダニエルは、建物の外で警備隊の指揮をしていた。
 裏口からクロードとエヴァの両名を入れ、正面からは警備隊の本体を突入させる手筈を組んだ。
 逃げ道もしっかり押さえている。連れ去られるフルーの後を追い、部隊を万全なものにするのに少々時間が掛かってしまった。
 一刻も早く、中に突入して女性達とフルーを助けたい思いだったが、心を鬼にして部隊の配置が整うのを建物の物陰で見守っていた。
「フィノさん突入準備完了です」
 剣で武装した一人が、ダニエルに現状報告にやってきた。
「では、突入します。なるべくこちらの被害は最小限に気づかれないよう素早く制圧してください」
「はい」
 ダニエルは、緊張で手の平が汗ばんでいた。手の汗を何度もキュロットの裾で拭くが、手の平から汗が滴り落ちる。
 時間がものすごく長く感じる。突入開始後五分で、エヴァがダニエルの元に戻ってきた。
「ダニエル、三階に女性達を発見。ローレンさんが三階は制圧したから、救助隊を入れて」
「わかったわ」
「エヴァ、首謀者達は二階で捕獲中よ。私達はそちらに行きましょう」
 ダニエルとエヴァは連れ立って、建物の中に足を踏み入れた。途中警備隊とすれ違う中、階段を上り二階のフロアへと足を踏み入れた。中には、警備隊に取り押さえられた用心棒らしい男達と、数人の年寄りがいた。
「あなたは!」
 ダニエルは、その中に見知った顔を見つけた。
「お前さんは、あの時の」
 相手もダニエルの事に気が付いたらしい。そこに居たのは一週間前、スリの少女に荷物をひったくられた老婆だった。
「あなた達がこの人攫いの首謀者!」
 老婆はあの時少女にすられた鞄を今も後生大事に抱えている。
「それ見せていただくわ」
 ダニエルは、何かに感づいて老婆から鞄を取り上げようとした。少し抵抗されたが、警備隊に囲まれているため、しぶしぶ従う。ダニエルは鞄の中を空けた。布製のその鞄は、中に小さな袋が入っている。その中の一つを空けてみると小さな木片が入っていた。その木片には絵柄が彫られているが、絵柄は丁度半分になっている。
 これは、割符というものだ。何か取引する相手がこの半分を持っていて、示し合わせるのが習わしだ。
 老婆は、ダニエルがそれを手にしているのを見ると、ばつの悪そうな顔をする。
「これをすられて、私達が取り返してきたから、あんなにお礼を奮発したわけね」
 ダニエルは無性に腹が立った。親切をしたわけだが、あのとき荷物を取り返してやり喜んだ老婆が、実は人攫いの首謀者で自分達も危うく片棒を担ぐところだったのだ。
 ダニエルは、エヴァに割符の入った袋を差し出した。
「エヴァ、この人たちの処理は、そちらの管轄に任せたわ」
「了解。売買ルートはこちらで調べて報告するよ」
 ダニエル達役人は幾つか管轄が存在した。地域や受け持つ担当が少しずつ違う。ダニエルの担当は居住区の内政が中心で、同行したエヴァは流通関係の担当官だ。今回は、流通ルートを特定するため流通官のエヴァの力を借りることにした。また彼は商業地区に顔が利く。
「お願いしたわ。あなた達、覚悟しておきなさい」
 ダニエルはそう言うと踵を返し、扉の方へ向かい三階へ駆け上がる。上階には女性達がいるとエヴァに報告を受けたからだ。廊下を歩いていると、警備隊の一人がダニエルに近寄ってきた。
「フィノさん、行方不明の届けが出ていた女性達は全員生存を確認出来ました。他にもリストにない数名を無事保護しました」
「わかったわ。全員健康状態が心配だから、近くの病院に運ぶ手配をしてください。医者とベッド数が足りなければ他の診療所に応援を頼んで。あと家族に連絡も忘れないでね」
「はい」
 ダニエルは、的確に指示を出す。そして逸る気持ちを抑えて三階の小部屋に足を踏み入れた。
 踏み入れた瞬間、異様な臭いに鼻を?がれそうになった。中は溢れかえった血の臭いと、鼻を突き刺す異臭が充満していた。
 ダニエルは思わず口と鼻を押さえた。ダニエルは今まで数々の現場を見て来たが、今回は特に強烈だった。迂闊にも数歩後ずさってしまった。
「ダニエル!」
 そんなところに室内にいたクロードから声を掛けてきた。
「外で待っていたほうがいい」
「でも……ローレン!」
 ダニエルは、クロードの腕の中にあるものを見て驚愕する。クロードの腕にはフルーが抱きかかえられていた。
「フルー、大丈夫なの!」
 ダニエルは慌ててフルー顔に手を添える。大丈夫だ、温かい。息もしている。
「大丈夫、多少怪我をしているが気を失っているだけだ。これからドクターのところに運んでくる」
「ええ……お願い!」
 クロードは、一度床の上にフルーを下ろすと彼の体を背負った。そして持っていた剣をフルーの太ももの下に横に通して、その上に座らせるようにして背負い直した。
「すぐ戻るが、後は頼んだぞ」
「ええ」
 ダニエルはクロードとフルーの背中を見送った。
「ダニエルだめよ! しっかりしなきゃ」
 ダニエルは、自分の両頬と両手で勢いよく叩くと、瞳に力を入れる。男達の死体の転がる室内を、毅然と立ち入り、被害者の女性達に手を差し伸べていった。
 こういう時、女性の自分の方が被害者の女性達を安心させることが出来るはずだ。
「さあ、もう大丈夫よ。お家に帰りましょう」
 ダニエルは、一人ひとりに丁寧に声を掛けて行く。

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