花の中の花 3章

泥棒と林檎

「ど、泥棒よ!」
 街の広場に女性の声がこだまする。
 アルデゥイナの東側、港の商業地域は、アルデゥイナの中で治安が一番悪い。置き引き、スリ、ひったくりの類は日常の光景だった。
 そして、今しがた荷物をひったくられたのは小柄な老婆だった。背後から荷物を奪われ、その拍子に身体のバランスを崩し地面に転倒した。立ち上がり盗られた荷物を追おうとするが、ひったくり犯は既に十メートルは先におり、今にも街の雑踏に消えかけている。
「だ、誰かぁ捕まえておくれ!」
 老婆は周囲に助けを請うが、傍で見ていた人間は、一瞬彼女を見るも、ばつが悪そうに視線をそむける。
「ばあさん運が悪かったな。諦めろ」
 中には親切に手を差し伸べ立ち上がるのを助ける者もいるが、諦めるように促すだけだ。老婆は肩を落とす。 
「そんな、あれには大事なものが!」
「おばあちゃん! ちょっとそこで待っていて!」
 その声は老婆の背後からしたかと思うと、次の瞬間金色の光の筋が老婆の横を猛スピードで走り抜けていった。老婆は何が起きたのか、一瞬よく分からなかった。
「へっ……えっ?」
 遠巻きに様子を見ていた人々が、面白そうな物を見つけたと集まってきた。
「お、これは面白そうだ」
「ばあさん、あの子ならもしかしたらもしかするぞ」
 老婆は周囲が言っている事がさっぱり分からず、自分を取り囲む人々を見回すことしか出来なかった。
 
 フルーは、石畳の道を全力で蹴った。それに合わせて、靴底の小気味良い音が響く。
 日中の港の近辺は、この時間帯が一番の人出だ。人にぶつからないよう人の波を縫うようにして、泥棒を追いかける。人混みを上手く歩くには、前を行く人のつま先を見るといいと教わった。人は行く方向を変える時、まずつま先がそちらに向く。
「ごめんなさい、ちょっと通してくださいね!」
 目の隅にひったくり犯を外さないようにしながら、足元を確認し道を進んで行く。しかしさすが相手も場数をこなしているのだろう。人の波をスルスルと掻い潜ってゆく。
「やっぱり、正攻法じゃ追いつけないか」
 犯人は、グレーの服の上下に前鍔の広い帽子を被っていた。フルーは走りながら、そのグレーを見逃さないよう、首に輪っかしてかけている紐をたぐり寄せた。
 その紐のペンダントヘッドは、大きなクリップだった。クリップには手の平サイズに折りたたまれた紙が挟んである。フルーはその紙を慎重にクリップから外すと、何度か折り目を開いて閉じてして、紙のページを送っている。
 それは地図だった。それもただの地図ではない、アルデゥイナ市内を網羅した特大地図で、地図上に無数の書き込みがしてある。フルーは、犯人を見失わないよう地図と道を交互に確認する。
「この先は……倉庫街の入り口だから、次の角を右に行って……二個目を……よしっ!」
 フルーは見当が付いたのか、地図をクリップに戻すと、服の中に押し込んだ。そして、犯人は数メートル先の大通りにいるというのに、大通りの横に口を開けている裏路地に足を向ける。これでは見失ってしまう。しかしフルーは、走るスピードを緩めない。反対に表通りに比べて人通りが少ない分、走るスピードを上げ裏路地を疾走する。裏通りは、路面が平らではなく少々走りにくいが、両足でパズルを組むかのように石畳の上を走りぬけた。
 角を二回曲がったところで、一軒の建物が道を塞ぐ。その建物の扉は重石が置かれ勝手に閉まらないようになっている。フルーは躊躇なくその扉を潜った。
「すいません! ちょっと通り抜けさせてください」
 中に入るとそこは倉庫だった。船から荷揚げされた荷物を一時保管する場所で人足達が、荷車を押している。
「おう! どうしたんだ?」
 フルーの姿をみて何人かが声をかけてくれる。しかし今はそれどころではない。手を振り笑顔でかわす。
「ごめん、いま取り込んでて!」
「そうか頑張れよ」
「またね!」
 応援を浴び、一足飛びに倉庫内を駆け抜ける。そして倉庫の反対側の出口へ通りぬけると、なんとそこは元いた大通りだった。
「はい、そこまで!」
 ちょうどフルーが大通りに飛び出ると、ヒッタクリの犯人が倉庫の前を通過するところだった。フルーは犯人の前に踊り出ると、相手が驚いた隙をついて、老婆の荷物を取り上げた。
「これは、返してもらうよ」
「何しやがる!」
「それはこっちの台詞だよ! これは君のじゃない」
「返せ!」
「駄目だ」
 犯人は戦利品を取り返そうとしたが、フルーは荷物を頭上まで持ち上げる。フルーは男性にしては、背が低い方だが、この犯人はそのフルーよりも更に小柄で、荷物に手が届かない。この身長からするに、ひったくり犯は年端もいかない子供のようだ。
「くそっ!」
 小柄な泥棒は、帽子の隙間から悔しそうにこちらを睨んでいる。そして突然フルーの脛を思いっきり蹴った。
「いたっ!」
 見事にヒット。フルーは痛みに飛び上がる。その隙に犯人はフルーの前より逃走を図った。せっかくの獲物を前に逃走するのは癪だが、捕まるよりはマシと考えたのだろう。
「バーカ! 詰めが甘いんだよ!」
 ヒッタクリ犯は、痛みに苦しむフルーに捨て台詞を吐いて、立ち去ろうとした――しかし……。
「それはどうかしら」
 犯人は何者かに逃走を妨げられ、地面に背中から倒れる。
「うがっ」
 誰かが走り出した犯人の襟首を背後から思いっきり掴んだのだ。犯人は自分の服の襟で首を締められる形になった。舌を噛んでいなければいいが……
 ――うわぁ。あれは痛い。
 泥棒は、よほど苦しかったのか自分の首を押さえてもがいている。
「逃がさないわよ」
 犯人の襟首を掴んで得意げに佇んでいるのは、ダニエル=フィノだった。
「ダニエル!」
 フルーは、自分の脛をさすりながら、犯人を取り押さえているダニエルに近づく。
「フルー、油断しちゃだめよ」
 どうやら彼女もこの泥棒を追いかけて来たようだ。肩で息をして頬を紅潮させている。
 今日のダニエルは、長い茶色の髪をアップにしており、彼女定番のスーツに身を包んでいる。スーツといっても男性の物と違い、綺麗なベージュ色の生地を使ったキュロットスカートと同色のベストジャケットを合わせている。パンツでも、スカートでもない、敢えてキュロットスカートを選んでいるのは、仕事着に機能性と彼女なりのファッション性を求めての事であろう。泥棒はそんなダニエルから逃れようと暴れる。
「君、足が速いわね。スリなんてやめて、ちゃんと仕事したら?」
「うるせぇ! 離せ!」
「よかったら仕事紹介してあげるわよ」
「そんな事言って、人買いかどこかに売っ払う気だろ!」
「あら、失礼ね。これでも私、一応役所の秘書官よ」
 泥棒は更に暴れる。暴れるあまり被っていたグレーの帽子が地面に落ちた。お陰で帽子の中に隠れていた顔と髪が露になる。
「あれ、きみ女の子だったの?」
 帽子の中から現れたのは、まだ幼さの残る可愛らしい少女だった。フルーは、泥棒少女の前にしゃがみ顔を覗き込む。
 年の頃は、十二、三歳くらいだろうか。肩までのまっすぐな金髪に碧眼とお人形のように可愛らしい顔をしていた。しかし、その可愛い顔は目の前のフルーに噛み付かんばかりの威嚇をしている。
「噛みつかれそうだ」
「あら、フルーに負けず劣らず可愛い子!」
 ダニエルの言葉の語尾にハートマークが見える気がした。ダニエルは可愛いものが大好きだった。
「……ダニエル、一言余計!」
 フルーはダニエルに突っ込みを入れるのを忘れない。フルーはその容姿から頻繁に女性に間違われる。本人も自覚しているが、面と向かって指摘されると多少は傷つくらしく、頬を膨らませ不貞腐れている。
「ごめんごめん、フルーちょっとこの子代わりに抑えておいてもらえるかしら」
「う、うん」
 フルーはダニエルに代わり、泥棒少女の腕を取る。
 ダニエルは、その隙に自分のジャケット内ポケットから革製のカード入れを取り出し、そこから一枚のカードを取り出した。
「はい、これ私の名刺。あげるわ」
 ダニエルは自分の名刺を泥棒少女に差し出した。しかし少女はそっぽを向いて受け取る気配がない。仕方ないのでダニエルは少女のシャツのポケットにカードを差し入れる 。
「貴女、こんな事を続けても先はないと分かっているでしょ。困ったらいつでも訪ねていらっしゃい。頼りないかもしれないけど、協力するわ」
 ダニエルは役所に勤めているが、彼女の実家のフィノ家はアルデゥイナでは古参の名家だ。ダニエルはこう見えて結構なお嬢様なのだ。しかし彼女はその事で驕るような事はない。誰にでも同じ目線で話をし、対等な関係を築こうとする。記憶喪失でいまだに身元が判明していないフルーに対しても、分け隔てることなく接してくれている。ダニエルはとても尊敬出来る女性だ。
「フルー離してあげていいわよ」
「いいの?」
「ええ」
 フルーは少女の腕を離した。腕を離すと同時に少女は一目散に雑踏の中に走り去って行った。二人はその後ろ姿を見送った。
「訪ねてきてくれるといいね」
「期待しないで待つわ」
 
    * * * *

「ダニエル! さっきわざと訂正しなかっただろ!」
 フルーとダニエルは、ロクサーヌの食堂にいた。
 二人は何やら大きな声で話している。昼をとうに過ぎた食堂は人が疎らだ。そのせいもあり二人は少し悪目立ちしている。
「二人共、どうしたんだい?」
 注文を席に取りにきたロクサーヌは、怪訝な顔をしながら二人に呼びかける。
「聞いてよロクサーヌおばちゃん! さっき商業地区でフルーがひったくりを捕まえたのよ」
「それはお手柄だったねフルーちゃん! やるじゃないか」
「いや、それほどでも。たまたま上手くいっただけだから」
 フルーは、ロクサーヌに褒められ頭を掻きながら謙遜してみせる。
「でねっ! 丁度わたしもその場に居合わせて、二人で奪い返した荷物を被害者のおばあさんに返しに行ったの」
 ダニエルは立ち上がりそのときの様子を実演してみせる。少々それは大げさで芝居染みている。フルーはというと、それを面白くないと言いたげに、唇を尖らせてダニエルの様子を見ている。
「荷物を盗まれたおばあさんが私たちを見て……『ありがとうよ!お嬢ちゃん達! お陰で助かったよ!』て言ったの」
 ダニエルはその時の事を思い出したのか、近くのテーブルの面を叩きながら笑い出す。
「わ、私はいいとしてね……ねぇ? フルーまで女の子に間違って!」
 ダニエルは笑いすぎて腹が苦しいのか、体をくの字にして腹部を両手で押さえている。
「ダニエルのいじわる」
 本日のフルーの服装は、白のレギュラーシャツにグレーのベスト、深緑色のズボンに膝下丈の茶色のブーツだ。決して女性らしい服装ではないのだが、生来の女顔に低めの身長、そしてこの半年の間で肩甲骨辺りまで伸びた金髪が彼を女性のように見せている。
「なんだ、それでフルーちゃん膨れていたのかい」
 フルーとダニエルは、盗まれた荷物を手に老婆の元に戻った。二人の姿を見た老婆は大喜び。二人にお礼をと市場で仕入れたばかりの林檎を一箱くれた。最初は断ったが、半ば強引に押し切られてしまった。
 それにしても老婆は最後まで、フルーのことを女性だと疑っていなかった。
「ダニエルそれくらいにしておやりよ。フルーちゃんのおへそが明後日の方角に曲がってしまうよ」
「ごめんごめん、あまりにも面白かったから……」
 フルーをちらりと見やる。そしてまた笑いが込み上げそうになるのを必死で堪えている。
「こっちだって好きで間違えられているわけじゃないんだからね」
「ごめんてば! それで話は変わるんだけど、ロクサーヌおばちゃん、この大量にある林檎もらってくれないかな? さすがにこれだけの量を家に持って帰っても食べきれないと思うのよ」
 ダニエルは二人で苦労して運んできた林檎の山を指差してロクサーヌに懇願した。フルーもロクサーヌを見て何度も頷いている。
「いいのかい? せっかく二人がお礼にもらったのに」
「是非ともお願いします!」
 フルーはロクサーヌの両手を握ると強く願い出る。こちらはダニエルより少し切羽詰っているというか必死である。
「この林檎達、僕なんかよりロクサーヌの魔法の手で、美味しいものに変えてもらった方が幸せだと思うんだ。僕達を助けると思ってお願いします」
「フルーちゃん、よしてくれよぉ恥ずかしいよ」
 なぜフルーがここまで必死なのかというと、彼は料理が得意ではなかった。朝御飯程度の物は何とか作れるが、林檎は剥いて食べる以上の料理センスがない。これだけの林檎を剥いて食べたら何日分あるだろう。
「……同じく」
 ダニエルもそっと手を上げる。彼女もそんなに料理が得意なわけではなかった。
「……まあ、こっちはこんな質のいい林檎をもらえて嬉しいけど。そうだ二人とも何か食べたい林檎料理はあるかい? お礼にご馳走しようじゃないかい」
「本当! じゃあアップルパイかしら、でもコンポートとタルトも捨てがたい」
 ダニエルは赤い林檎を眺めながら真剣に考えている。女性は甘い物に目がないというが、フルーも甘いものが嫌いではなかった。ロクサーヌが作るお菓子も美味しいが、街の露店などで売る小麦の薄皮にクリームやフルーツを入れたりするおやつや、ケーキも大好きだった。懐に余裕がある時はよく買う。
「それは時間が掛かりそうだから、次に来たときにね。フルーちゃんそのときはローレンとドクターも連れておいで」
「うん、分かったロクサーヌ」
「よし今日は……そうだねぇ焼き林檎を作ってきてあげようかね。それにしても、ずいぶん立派な林檎だこと。そのおばあさんの荷物、余程大切な物が入っていたんだね」
 ロクサーヌは、林檎の山から形のよさそうな林檎を手にする。林檎は赤く艶やかで痛みがない。普段フルーが買う林檎とは大きさも香りも違う一級品だ。いったい全部で幾らくらいするものなのだろうか。考えると怖くなりそうだ。
「あの荷物。相当大金が入っていたのかしらね」
 ダニエルは、テーブルに置いてあるメニューを手に取ると。暢気に焼き林檎に合うオーダーを考えている。
「どうしようかな。焼き林檎に合いそうなミントティーと、バニラのアイスクリームオーダーしようかしら。フルーは何にする?」
「僕はコーヒーで」
「えっ、今日は驕ってあげるつもりだから、遠慮しないでよ」
「なんで、悪いからいいよ」
 ダニエルはいいわよと言うとフルーに自分が持っていたメニューを押し付けた。
「実はフルーにちょっと聞きたいこととかあるのよね」
「聞きたいこと?」
 フルーは、メニューを受け取りながら少々嫌な予感を感じた。ダニエルはテーブルに両肘をついてこちらをニコニコと眺めている。
「ねっ、だからご遠慮なく」
――なんだろう、この嫌な予感。
 
 程なくしてテーブルの上に、ロクサーヌ特製の焼き林檎とバニラアイスがトッピングされた豪華な皿とお茶のセットが用意された。フルーはダニエルと同じものを注文した。
「おおー!」
 それはキラキラしていて宝石のように綺麗だった。林檎からは熱々の甘い湯気が上がり、スパイスのシナモンが鼻をくすぐる。林檎の横に添えてあるバニラアイスが溶けて皿の上で渦巻きのように広がる。
「さ、アイスが溶けないうちにいただきましょう」
 ダニエルは満面の笑みで、林檎とアイスを絶妙配分で掬い上げると、こぼさないようスプーンを口に誘い入れる。
「んー! おいひぃ。やっぱり仕事の疲れには甘いものよね」
「やっぱりロクサーヌは魔法が使えるとしか思えない。どうしたらこんな美味しいもの作れるんだろう」
「そうね。……ところでフルーこの街にはだいぶ慣れた?」
「まあ。そこそこかな」
 フルーは、テーブルにスプーンを置くと、首に下げていた地図を取り出すとテーブルの上に置いた。この地図は全て広げると新聞ぐらいのサイズになる。
「まだ八割ぐらいだけど、だいぶ回ったよ」
「それ、この半年で?」
 フルーがこの街に来てから約半年が過ぎようとしている。フルーがクロードの家に運び込まれたのは、ダニエル祖父ヴィクトルの葬儀の日だった。そのためダニエルは嫌でも日数が分かってしまう。
「クロードの仕事を手伝っているといろいろな場所に行かされるから、自然と人と場所を覚えられるよ」
 アルデゥイナは人の出入りが激しいので、正確な人口数は不明だが、常に十万人前後の人が滞在している。それは小規模な国家の人口に匹敵する。フルーがその八割を回って、人と接しているというのなら、本当に凄いことだ。
 それは彼、フルーの特技であった。当初街の人々は、記憶がなく正体不明のフルーの事を奇異な存在として遠ざけていた。最初からフルーの存在を邪険にしなかったのは、彼を見つけたダニエルとドクター、そしてこの食堂の女将ロクサーヌくらいだった。
 しかし彼の屈託ない性格と人好きされる性質も相まって、街に溶け込むのに時間は掛からなかった。誰にでも好かれる体質と言うのだろうか、本人は自然とそれをやっている。このフルーという名になった少年は、人の保護欲を駆り立てるのだ。
「フルーは今日どうして商業地区に居たの?」
「クロードの仕事が仕上がったから、代わりに届けに行ってたんだよ」
「どんな仕事?」
「魔導器の説明書の翻訳だよ。最近商業地区の工場が共同で新しい大型魔導器を手に入れたんだけど。説明書が全編魔族の言葉で、クロードに翻訳頼んできたんだ」
 魔導器とは、魔族界で作られた機械の事だ。大きさ用途は様々だが、魔導器の最大の特徴は魔力がない人間でも使用できることだ。魔族界との交流がない今、中古品などが市場に流通はしている。中古品でも手入れをしてやれば十分に使える便利な機械だ。ただ1つだけ難点なのが、魔導器の取扱説明書が魔族言語で書かれており、正しい手順で作動させなければ使用できないのだ。普通ならば翻訳書も添付されているのだが、今回の品は、翻訳書未添付の訳あり破格商品だったらしい。
「ふーん、それくらいならクロードには朝飯前ね」
「それが、結構時間掛かっちゃって、魔族の言葉でも古い時代の用語が使われていたみたいで、翻訳に時間取られて結局清書は僕が代筆したんだ」
「あら、フルーの字なら下手な役所の事務方より綺麗だから問題ないと思うけど」
「書くのは嫌いじゃないからいいんだけど、普段見慣れない単語ばかりの文章だったから、何度も書き間違えて心折れそうだった」
 フルーはクロードの家で居候をするにあたり、『働かざる者食うべからず』というクロードの方針から、手始めに家の雑用をすることになった。当初は家の掃除や洗濯をしていたが、試しにクロードが自分の仕事の一部をやらせてみたところ、読み書き計算など人並み、いやそれ以上に出来る事が分かった。そして足の怪我がよくなり、リハビリに身体を動かしはじめたところ、その可愛らしい外見とは裏腹に俊敏に動けるので、周囲を驚かせた。しかし、フルー本人が一番驚いていたようだ。
「フルー、ローレンからちゃんとお給料貰っているの?」
「困らない程度に貰っているよ。まあクロードには衣食住世話してもらっている身だから、あんまり贅沢は言えないよ」
「最近のフルーは、やっている事と対価が合ってない気がするわ」
「そうかな?」
「なんでローレンは、そんなにフルーに仕事押し付けているわけ?」
「……それは」
「それは?」
「最近、受けている仕事が上手く進んでいないみたいなんだよね。前倒しで手を付けているみたいなんだけど、どうしても時間が足りなくなるみたい」
「そっか……」
「もしかしてダニエル、僕に聞きたい事って?」
「そう、ローレンの手の空き具合が知りたくて、実は早急に手を借りたい仕事があってね……」
 ダニエルはそういうとずっと大事そうに持ち歩いていた革鞄を叩いた。
 クロードの仕事は、本人は『何でも屋』と言っているが、大きく分けて二通りある。一つはダニエルなど役所からの指名依頼。こちらは役所から『特務官』という官職の権限が与えられる。彼の特性を活かして街の運営維持に関わる仕事を引き受ける。もう一つは一般の人から直接依頼されるもの。先ほどの魔導器の翻訳文作成のようなものだ。クロードは役所に役籍を置いているため、役所仕事が優先されるのだが、人間領に住む変わり者魔族は、多方面で人気があり、依頼は常に満員御礼の立て札を掲げたいほど溢れている。そのため同時並行でいくつもの仕事を抱えているのが通常だ。だが時々厄介な仕事にぶち当たり煮詰まり、停滞する。現在、そのとばっちりを受けているのが助手をしているフルーというわけだ。
「……困ったわ」
 ダニエルはミントの香りのするお茶を傾けながら呟く。
「ダニエル、そう思うならうちの貴重な戦力を返してもらえないか」
 ダニエルとフルーは同時に飛び上がる。素早く背後を振り向くと、いつ来たのだろうか、ダニエルとフルーの背後にはクロードが腕組み仏頂面のコンボで佇んでいた。
「び、びっくりさせないでよローレン!」
 毎回思うのだが、クロードの登場は心臓に悪い。
「二人共、こんなところで油を売って何をしている」
「何って、女子会よ」
「へえっ!」
――じょ、女子会って!
 フルーはダニエルの冗談に目を白黒させるが、クロードはダニエルの冗談にもしれっとした表情で受け流す。
「はいはい、また甘いものばかり食べていると、鼻の頭のそばかすが増えるぞ」
 クロードはそういうと、ダニエルの鼻柱を指ではじく。
「もう大きなお世話! 人が気にしている事を!」
 ダニエルは鞄からコンパクトを取り出すと、これ見よがしに鼻頭のそばかすに粉を叩く。傍から見ると二人のやり取りは面白い。フルーは思わず笑ってしまった。
「ダニエル、なんで気にしているの。そのそばかすとっても可愛いのに勿体無いよ」
 フルーは自分の思っていることを素直に述べた。ダニエルの鼻の頭から頬には、そばかすがある。白い肌に点々とあるシミはチャーミングだと思っていたのが、どうやら本人は気にしていたらしい。
「もうフルーたら! 嫁にもらいたくなるような事言わないでよ!」
 ダニエルは照れ隠しに、フルーの背中をバンバンと平手で叩く。
「ちょっとダニエル! それは僕のこと褒めているの、それとも貶しているのかな?」
「いやだ。褒めているに決まっているじゃない。それよりローレン、フルーの待遇少し考えたら、最近ずいぶん重宝しているみたいだけど、正式に仕事の助手として役所の役籍を申請してみたらどうなの」
「ダニエル何を唐突に! 僕に役籍だなんて身分不相応だよ」
 役所の役籍とは、アルデゥイナの運営に関わる役所関係者に与えられる特別な『籍』だ。役籍を持てば同時に街の戸籍を持った住民として正式登録される。アルデゥイナの戸籍を得るには大変厳しい審査があると聞く、しかしそれが通れば身分の保証はもちろん、様々な行政サービスなど恩恵を受けられる。フルーはその戸籍さえ取得していない。なのに役所に役籍を得るなど、一足飛びすぎると言いたいのだ。
「そうだな、実は考えていないわけではないんだが、特務官の補佐の席となると、押しになる実績がないと難しいだろう」
「なるほど実績ね。それは言えているわ」
「チャンスがあるとき申請してみるさ」
「その時は任せて。裏書に推薦人が欲しければ数人集めてくるわよ」
 ダニエルはそう言うと自分の腕をパンと叩いて見せた。
「ああ、そのときは頼む」
「ちょっと、二人共僕を置いて話を進めないでもらえますか」
 フルーは、自分を他所に話が進んでいるので、抗議の声を上げるが。
「悪い話じゃないからいいじゃない」
 ダニエルは、笑いながら椅子の下に置いておいた革鞄を取り上げる。
「丁度ローレンが来たからここで話しをしてしまっていいわよね」
 ダニエルは是が非でもクロードに仕事を依頼するようだ。クロードは、ダニエルの性格を知ってか、諦めて食堂の空いている席に着く。
 ダニエルは、鞄から書類の入った封筒を取り出し、中身をクロードの前に差し出した。
「これはどうしてもローレンに引き受けてほしいの」
 クロードはダニエルから書類を受け取ると、ページをめくりはじめた。数枚めくったところで、クロードの目つきが変わった。いつもの不機嫌そうな顔に鋭さが加わる。
 クロードは、フルーに書類を渡す。どうやらお前も目を通せと言う意味のようだ。フルーは受け取ってページをめくる。
「これは本当か?」
「ええ、確かよ。ここ数週間商業地区で人攫いが横行しているの。それも若い器量の良い女性ばかりを狙ってね」
 フルーが受け取った書類には、行方を絶った女性の名前、最後に目撃された場所、被害届などの情報が記されている。
「……それで今日、ダニエルは商業地区に?」
 ダニエルは、頷いてみせた。
「今日は現場状況の確認と諸々の仕込みをしにね。背後に大規模な人身売買組織がいる可能性があるわ。あとフルーの身元の手がかりがあればと思ったのだけど、今回は女性ばかりの人攫いみたいだから」
 ダニエルはこの手の話は必ずクロードに持ってくる。それはフルーの身元の手がかりになればという彼女なりの気配りだ。
「ダニエル、いつも気にかけてくれてありがとう」
「お役に立てなくてごめんね」
 フルーは本当に頭が下がる思いだった。こんなに親切にしてもらえて、自分は何を返せばいいのと思ってしまう。
「それでその組織をみつけるのか?」
「攫われた女性達の保護が最優先、組織の構成メンバー捕獲なら上等といった感じ」
「これは、また数日下手すると一月単位の仕事だな」
「だから様子見に来たじゃない。持っている仕事を早急に片付けて手を空けてください」
 ダニエルはクロードに簡単に注文をした。クロードはというと整った顔の眉間に深い皺を寄せて険しい表情をしている。それはそうだ、残っている仕事を片付けるとなると今夜は徹夜になるだろう。
「魔族使いの荒い人間め。フルーお前も手伝えよ」
「……やっぱり」
 恨み節の一つも言いたくなるが、酷い目に合っている女性達のため頑張るしかない。

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