二枚の結婚写真

02

    ***


 千恵子は、大変裕福な油問屋の娘だった。生まれたのは関東大震災の前の年、まだ赤ん坊だった千恵子は、家が再建されるまで鶏小屋に寝かされていた。しかしその記憶はない。周囲の大人達がそう言うのだ。
 彼女は武蔵野女学校を出て、好きな洋裁を学び何不自由なく生きてきた。千恵子の母がハイカラだったため、周囲には新しい物が溢れていた。性格は怖い物知らずの姉御肌で、妹達の面倒をよくみていた。夢は洋裁の先生か、自分のお店を持つことだった。
 千恵子は兄弟が多くいた。自分の上に兄と姉が数人、下には妹が四人いる。しかし、上の兄と姉達は早くに亡くなり、唯一生き残った兄は、先月戦地へと出兵した。気づけば自分が兄弟の中で一番年長になってしまった。
 時は、昭和十年代。国中は戦時下にあった。国民総動員のこの戦争は、自由に生きてきた千恵子の上にも降りかかる。
「千恵子話があるからこちらにおいで」
 千恵子は、父に呼ばれた。
「何か御用かしら?」
「お前の嫁ぎ先を見つけてきた」
「……私、やっぱりお嫁に行かなくては駄目なの?」
「相手は死んだ広姉さんの旦那のお姉さんが姑のお宅だ。全く他人というわけでないんだよ。それに向こうさんも是非にと言っているんだ。悪いお話じゃないよ」
 千恵子の父が選んで来た嫁ぎ先は、材木屋をしており、こちらも割と裕福な家だった。しかも材木屋の長男で跡取り息子。おまけになかなかの好青年だった。誰もがうらやむような婚姻だ。
 この時代、女学校を卒業した娘は、軍需工場で工員として働くか、結婚するしか選択肢がなかった。千恵子の父は、娘を工場に取られるのを不憫に思い、良い嫁入り先を探して来てくれたのだ。
 千恵子は、首を縦に振るしかなかった。
「分かりました。そのお話お受けします」
 式当日。戦時中だが、黒留袖を着て精一杯華やかに着飾った千恵子の姿があった。しかし千恵子の表情は浮かない。それには理由があった。
 千恵子の旦那様は、この式の一週間後に戦地に旅立つことが決まっていたのだ。相手の家は、戦地に向かう息子に、せめて嫁を取らせてやりたかったのだろう。式の後、千恵子は旦那様と写真を一枚撮った。
 それから慌ただしく日々が流れ、旦那様は出兵の日を迎えた。
 千恵子の旦那様は、無事に帰って来る保証はないからと、千恵子とは夫婦らしいことを何もせずに旅立った。
「手も握ってはくれなかったわ」
 千恵子は、嫁ぎ先の家にぽつんと取り残された。頼る旦那様も家族もいない家。
 材木屋を営んでいるこの家は、実家と違い薄暗い。死んだ木は、陽を嫌う。日の光で焼けてしまうのだ。
 義理の父は、せっかくある庭に屋根をかけて、材木置き場にしてしまうのだ。これでは洗濯物が乾かないではないか。千恵子の気分も沈みがちになる。
 しかし悪いばかりではない。
 姑の菊は、千恵子を大変気に入って、千恵子を愛称の『チコちゃん』と呼んで可愛がってくれた。実家とはだいぶ様子が違うが、ここでの生活はそんなには悪くはなかった。
 じっとしているのが苦手な千恵子は、塞ぎ込む日々に飽きてしまった。
「なにさ!」
 行動を開始した彼女は、気づけばこの材木屋の家を仕切り始めた。怖い物知らずの彼女は、まだ勝手の分からない嫁ぎ先の家の中を動き回る。
「旦那様が帰って来るまで、私がこの家を守るんですから」
――もうそう決めたからいいの。
 その背後から、義理の弟妹達が、物珍しそうに彼女のすることを見て回る。ハイカラな家で育った千恵子がすることは、とても珍しい事ばかりなのだ。義理の弟妹達はこの新しい『姉さん』に心奪われるのに時間はかからなかった。千恵子には、新たに三人の弟と、妹が一人出来たのだ。

    *

 戦時中は、物がない。何よりも食べ物が困った。
 国からの支給品は少なく、物が欲しい時は、裏で取引をするのだ。もちろん違法だ。しかしこうでもしなければ、栄養のある物が手に入らない。
 今日、千恵子は実家の油問屋に顔を出すと、一斗缶に入った食用油を、一人でうんしょ、うんしょと運んで持って帰ってきた。
 一斗缶の油は大変重かった。途中腰と手が痛くなったが、何とか無事に持ち帰れた。
 なぜ一人でこんな苦労をして運んできたかというと、もちろん黙って持ってきてからだ。
「実家の物をちょっと持って来ただけだよ」
 千恵子は、飄々と言ってのける。
 悪い事をしているとは、考えていなかった。今の時代、みんながしていることだ。それに千恵子の実家にはまだまだ余裕がある。一斗缶ひとつ無くなったぐらいどうってことない。おまけに実家の父は大らかな人で、千恵子の勝手を許してくれていた。
 千恵子の父は、油問屋の事業をしていたが、気前よく人の借金をよく肩代わりしてしまい、家の箪笥などに取り押さえられ赤札が貼られることがあった。なんてお人よしなんだろうか。どうやら千恵子の性格は、父に似たようだ。
 千恵子はその缶を持って、近所の和菓子屋に向かった。
「こんにちは」
「あら千恵子さんじゃない」
「ねぇ、奥さんここに食用油がこれだけあるんだけど、何かと交換してくれないかしら?」
「えっ、油ですって!」
「ええ」
 千恵子は苦労して運んできた油を、和菓子屋の女将に披露した。
「もちろんよ! じゃあこの米と砂糖と交換しましょう」
 千恵子は和菓子屋で米と砂糖を手に入れた。もちろん、実家から油を拝借したので、元手はタダだ。
「ありがとう奥さん、きっとみんな喜ぶわ」
 千恵子は、手に入れたばかりのお米と砂糖、野菜や缶詰をリュック一杯に詰め込むと、それを担いで電車に乗り込んだ。
 向かう先は、疎開先の奥多摩。
 材木屋の家の人々は東京の奥多摩にある本家に疎開をしていた。家に残ったのは、千恵子ひとり。毎週、何かを手に入れては、千恵子は義理の両親や弟妹達が待つ疎開先に通った。電車は混んでいて乗り込むのだけでやっとだ。それでも彼女は負けじと、電車の中で荷物を抱えて乗り込む。奥多摩まで、電車で三時間の旅だ。この混み合った電車では相当体力を消耗する。また駅からは山登りが待っている。長い坂をえっちらおっちら上った先に本家の家がある。三男の弟と二人、ジャガイモを担いで何度も往復したこともある。もうこの坂も慣れっこだ。
「姉さんだ!」
 二人の弟と妹が坂を駆け下りて出迎えてくれた。次男の弟は、去年出兵した。弟といっても千恵子よりも年上だ。
「今日は何があるの」
 弟達は荷物を受け取ると、嬉しそうに聞いてくる。
「今日はお米があるわよ」
「やった! ごはんだ!」
 妹が喜んで飛び跳ねる。
「あれ、姉さんお米がないよ」
「えっ? ちゃんと入れたわよ」
 しかし、リュックの中にはお米が入っていなかった。家を出るときには確かに入れた。
 どうやら電車の中でお米だけ盗まれたようだ。お米だけ盗んで他の品には手をつけないなんて、なんて周到な泥棒だろうか。
 今の時代、お米が何よりも貴重なのだ。
「ごめんなさいね。次はちゃんと持ってくるわ」
 がっかりさせてしまった。そして千恵子は、悔しさと自分のふがいなさに、怒りがこみ上げてきた。

    *

 昭和二十年三月十日、東京大空襲。
 千恵子は、その時東京の下町、材木屋の家にいた。
 舅の兄は、奥多摩で神主をしている。そこで貰ってきたお神酒を家の周りに撒いて回った。
「神様どうか、この家をお守りください」
 材木屋に焼夷弾が落ちたら一巻の終わりだ。燃えやすい乾燥した木は絶好の火種だ。もちろん、周囲の家々が火事になっても終わりだ。家を一周、お神酒を撒き、手を合わせて回った。
 そして後ろ髪をひかれる思いで、家から避難をした。
 線路の向こう側は一面火の海、家の裏手に川があったため、火はそこで食い止められ千恵子は無事に逃げのびる事ができた。しかし、目にした光景は、生き地獄だった。焼き出された人、たくさんの人が火に焼かれ亡くなった。
 地獄の一夜が明け、朝日が昇り周囲が見渡せるようになった。火はだいぶ落ち着いてきた。千恵子は避難していた地を離れ、自宅の方へと歩き出した。
――私も、もう駄目かもしれない。
 千恵子はそんなことを考えていた。たぶん家も焼けてしまっただろう。疎開先に行けばいいだろうか。しかしこの状況では、電車が動くか分からない。明日からどうやって生きて行けばいいのだろう。そんな考えが心に住み着く。
 家を守るとこの地に残ったのに、これでは家族に合わせる顔がない。
 焼け野原となった街を見渡した。するとどうであろうか。遠くの方に、千恵子の住む商店街の端が目に入った。
「まさか!」
 千恵子は走った。
 千恵子の住んでいる銀座商店街は、どこも燃えず空襲前と同じに静かに佇んでいるではないか。そして、その中にある材木屋の我が家は……
「……ああ、ああっ」
 千恵子は、思わず地面に膝を着いた。
 材木屋は、無事であった。庭を潰した材木置き場にも火がついていなかった。これは奇跡としか言えなかった。
「神様ありがとうございます、ありがとうございます」
 嬉しさと安心した気持ちから自然と涙が溢れた。
 千恵子は嫁いでから、毎日神棚のお水を取り替え、朝晩とお参りをしていた。この家に嫁ぐまで、信心深くはなかった。しかし、郷に入れば郷に従え。最初は見よう見まねでやっていたが、次第に神棚を大切にしていた。きっと神様が千恵子の願いを聞き届けてくれたのだろうと思った。そう思わないといられない奇跡が目の前に起きたのだから。

 家を失った人が、材木屋の家に押し寄せてきた。親戚なのか知り合いなのか、人々がこの家を頼ってきた。千恵子は家に貯めていた食材を炊き出して振る舞った。家を失わずに済んだのだ、お礼をしなくてはいけない。
 しかし、焼き出された人々は、千恵子にお礼も何もなかった。そのことが心にチクリとする。自分は神様でも出来た人間でもない。この人達は、そんな余裕もないのだと言い聞かせるが、やはり心はチクチクする。
――私は家も家族も助かったのだから。
 忙しくして忘れることにした。しかし千恵子はいくつになってもこの気持ちを忘れることは出来なかった。
 
 それから数か月後、この長い戦争が終戦する。千恵子は、二十三歳になっていた。
 しばらくして、疎開していた両親と弟妹たちも、帰ってきていた。
 家が丸ごと残ったおかげで、舅は戻ってきてすぐに商売を再開した。木材は良く売れた。まずは薪。食事の煮炊き、風呂焚きに必要なものだ。作ったそばから売れてしまう。そして家を失った人々が家を建てるために木材を買い求めにやってくる。仕入れても仕入れても、すぐに売れてしまう。笑いが止まらないとはこのことだった。
 しかし、そのせいで家族も大忙しだ。薪を作るために、鉈を振るう。仕入れた木材を細かく割って、薪を作るのだ。弟達は勉強よりも家を手伝えと舅に言われる。そんな日々が続いたある時、その日は突然やってきた。
 
    *

 その日の事は、正直なところよく覚えていない。
 昼過ぎ、家に人が訪ねてきた。千恵子と姑の菊が対応した。
 その人は、千恵子に木の箱を差し出した。箱を開けると中には小さな一枚の紙切れが入っていた。その紙には、旦那様の名前が書かれていた。
「これは?」
 その箱を届けてくれた人は言った。
「ご遺骨です」
 と。
 どこに骨が入っているのだろうか。入っているのは、白い紙切れ一枚ではないか。
 姑の菊は、全てを察したのか、千恵子の持つ木箱を抱えて泣き崩れた。千恵子は、それでも現実味がなかった。
 頭の良かった旦那様は、もしかしたらうまく逃げて生きているかもしれない。そう思わずにはいられなかった。
 だって旦那様は、骨も何も帰って来なかったのだから。
 これが戦死通告だった。
 千恵子は、二十代の若さで未亡人となってしまった。そして、それはこの材木屋の家との縁も切れてしまったことを意味する。
「どうしよう、実家に帰ろうかしら」
 千恵子は、そんなことを考えていた。しかし戦争は終わっても時代はまだまだ過酷だった。この頃、GHQの指導で政府は財産税法を制定した。多大な税金が課せられ、裕福な家ほどその税率が高く多くの財産を没収された。そのせいで華族やお金持ち達が没落していった。千恵子の実家の油問屋も例外ではなかった。両親と兄弟たちは、家と財産のほとんどを税金として支払った。そして残ったお金で父の実家の群馬で慎ましく暮らすことになった。千恵子には、もう帰る家がなかった。
 そして現実はもっと過酷だ。実家にはまだ妹達がいる。その面倒を千恵子も見なくてはいけなかった。
 しかし千恵子は、旦那様が戦死したことで、嫁ぎ先を出ていかなくてはいけない。途方に暮れていた。
「本当にどうしたらいいの」
 
    *

「チコちゃんが出ていくなら私も出ていくよ!」
 姑の菊は、ある日そう宣言した。
 彼女は何を言っているのだろうか。菊がこの家を出て行く理由などない。菊は、千恵子の事を大変気に入っていた。未亡人となった千恵子を追い出すなら、自分もこの家を出て行くというのだ。
 そこで舅はある提案を出してくれた。
 我が家で生き残った息子のうち、千恵子より年上の二人のどちらかと再婚してはどうだろうかと。
 旦那様のすぐ下の弟の昭三は、無事に戦地から帰って来ることが出来た。そして戦時中疎開先で一緒にじゃがいもを運んだ弟も千恵子よりも年上だ。候補として二人が上げられた。
 千恵子は、その話にすぐ返事をすることが出来なかった。自分には戻る家はない。申し出はとてもありがたいことだ。しかし、相手はどうだろうか? 兄のお嫁さんだった人をもらうなど嫌だろう。

「千恵子姉さん」
「あら、昭三さん。何かしら?」
「私は望んでいなかったのに、兄弟で一番の年長になってしまった」
「私もです。気が付いたら長女としての役目が回ってきてしまいました」
 昭三は名前の通り、三男だったが。気づけば上の二人が亡くなり、戦地から帰ってきたら自分が材木屋の跡取り候補になってしまっていた。期待もされない三男。きっと材木屋を継ぐつもりもなど少しもなかっただろう。そこに来て、突然の話。舅から受けるプレッシャーは相当のものだった。
 千恵子は、この青年の言いたい事が少し理解出来た。
 昭三は、戦地から帰ってきてからというもの、よく酒を飲んでいた。戦地ではどんな過酷な生活をしていたのだろうか。お酒を飲んで気を紛らわしているのは、きっと忘れたい経験があるのだろう。
「これを」
 昭三は一冊の本を千恵子に差し出した。
「私はどうも、話すのが苦手で……まずはお互いの事を知った方がいいと思って」
 千恵子が受け取ったのは、何も書かれていない分厚いノートだった。
「これは?」
「日記です。交換日記」
「これはその、私とですか?」
「はい」
 千恵子は、真面目な顔で日記を差し出した昭三を見て、何故か笑ってしまった。
「わかりました」
 この人は無口で無愛想。しかし何かをしっかり考えているようだ。
――この人となら、もしかしたらやっていけるかもしれない。
 千恵子は、日記帳を胸に抱いて、そんな事を考えていた。

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