探さないでください 3章

逃走不可



   * 

 城内の謁見の間に、盛大なファンファーレが鳴り響いた。キールクラインは、その音色と共に謁見の間に入室した。
 謁見の間は長い直線の広間だ。大理石のフロアの上に赤い絨毯が一直線に伸びている。それを道なりに進むと数段の階段があり、その最上段に玉座がある。
 キールクライン階段の手前で立ち止まると、マントを背後に払いその場に跪いた。そして深く頭を垂れる。
「国王陛下、キールクライン・フォン・ロイト、ただ今帰還いたしました」
 名乗りと帰還の挨拶が終わるのとほぼ同時に階段の上から声が降ってきた。
「おおキールクラインよ、堅苦しい挨拶などぬきだ! さあこちらに、こちらに上がって来なさい!」
 その声は、ヴァリトンのどっしりした声だった。キールクラインの記憶に残る国王の声と変わらない。
 公の場で王と臣下が直接会話をすることはない。しかし今日は王の要望に従う。キールクラインは頭を上げると立ち上がった。
「はい陛下」
そして、玉座へと続く階段に足を進めた。階段を少し昇ると王の姿と玉座がよく見えるようになる。王は興奮気味に玉座から立ち上がると、両手でキールクラインを手招きしていた。
 キールクラインは国王に促され、最上段まで上がると、王の前で立ち止まった。
「ただいま帰りました」
「よくぞ無事で」
 感極まった王は、クローディアがしたのと同じようにきつくキールクラインを抱きしめた。クローディアの時ほど長くなかったが、王はキールクラインを解放した後も長い時間その姿を観察した。
 とても照れくさい。照れ隠しに鼻の頭を掻く。
 国王は髪に白い物が混じり少し老けてみえた。それもそうであろう。キールクラインの記憶にある国王は、五年前の姿なのだから。
「キールクラインよ、立派な青年になったな」
 国王は、ようやくキールクラインに対して感想を述べた。
「ありがとうございます、義父上様」
 国王は、キールクラインの言葉に目を細めた。キールクラインとラヴィリアは、幼い頃より養父でもある国王を『義父上様』と呼んでいた。国王もそれを喜んでいた。
「私の事をまだ『義父』と呼んでくれるのかい?」
「はい、陛下は私達を育ててくださいましたので……」
「そうか……では私には息子と娘が二人もいるのだな。喜ばしいことだ。のうクローディア」
 王はそう言うと王の玉座の横に体を向けた。
「はい、お父様。キールクラインは私の自慢の弟ですわ」
――うわああっ!
 いつのまに現れたのだろうか。玉座の横にはクローディアの姿があった。キールクラインは驚いて変な声が出そうになったのを必死に飲み込む努力を要した。
 キールクラインとクローディアは、城からの迎えの馬車に乗り込み、城にやって来た。車上でクローディアから旅の様子など質問攻めに合い、風景を楽しむ余裕もなく城に到着した。そしてキールクラインが先に馬車から降り、クローディアの降車を手伝おうと思い振り返った時には、姉の姿はそこにはなかった。馬車には両側面に扉がついている。恐らく反対の扉から自分で降りたのだと推測するが、何か一言告げてくれてもいいのにと、ヘソを曲げていたのだ。
 再びキールクラインの前に現れたクローディアは、先程までとは全く違う装いになっていた。
 その身は深紅のドレスを纏い、ルビーのような鮮やかな赤い髪は、高く結い上げダイヤが散りばめられたティアラが飾られている。形の良い唇には紅が差されていた。その立ち姿は、まるで絵画のようでもあり、王族としての品格を有している。素直に美しいという感想が頭に浮かんだ。
 キールクラインは、クローディアの短時間の早変わりに脱帽した。
 クローディアは先程から強烈な眼差しでキールクラインを見つめている。
 その目はあたかも『国王に余計な事は何も言わないように』と語っているかのよう。いや、たぶん正解だ。
――分かってますって……酒場で会ったとか、おねぇちゃんに不利になることは、何も言いません。信用ないなぁ。
 心の中で愚痴を一つ。話の風向きが変わっていたことに気づくのが遅れた。
「クローディアよ。キールクラインはこんな好青年に育ったぞ。どうだ、お前もそろそろ婿を取らねばならない歳だが……キールクラインはどうだ?」
――ほぇっ? なんでそんな話題になっている!
 国王は、突然特大サイズの爆弾を投下してきた。
「お互いのことをも良く知っている、これ以上の相手はいないと思うのだが……」
「ち、義父上様? わ、私とお姉……姉上様がですか!」
 キールクラインは慌てるあまり、静かな謁見の間で思わず大声をあげてしまった。しかもクローディアの事を『お姉ちゃん』と呼びそうになってしまった。キールクラインは公の場前ではクローディアを『殿下』と呼ぶようにクローディアに釘を刺された。そして少しフランクになって良い場合は『姉上様』と呼び分けるようにとも。今はすんでのところで姉上様に切り替えたわけだが、この数秒で二重に肝を冷やした。
「お父様、その話は私の方からお断りします」
 キールクラインが一人肝を冷やしていると、こんな場面でも冷静な王女様は、王の言葉をさらりと受け流し自分の意志を告げる。
「なぜじゃ、クローディアよ。これ以上ない良縁だと思ったのだが」
「お父様よく考えてくださいませ。キールクラインはラヴィリアの物なのですよ」
 クローディアの口からも国王に負けない爆弾発言が落ちる。キールクラインは慌てて王父娘の会話に乱入する。
「あの、姉上様! 私はいつからラヴィリアの物になったんですか!」
「この子は、何を言っているの。生まれた時からよ」
――生まれた時からって……。
「……ふむ、そうであったな、私としたことが失念しておった」
――えっ、国王まで……。
 どうやら親子の意見は一致したらしい。
 確かにキールクラインにとってラヴィリアは大切な存在で優先すべき対象だ。しかし非常時は最優先とはならない事をお互いに魂に刻み込んできた。命を賭して支えるのは、主君ただ一人。幼少の頃よりそう教え込まれてきた。しかし、まさかその主君から『お前はラヴィリアの物』と断言されてしまうとは……キールクラインは全身から言い知れぬ虚脱感を覚えた。
「は、ははは……」
「それにお父様。私にとってキールクラインは、今も昔も可愛い弟なのです。それ以上の感情が持てるはずがありませんわ」
「そうか……ふむ、良い考えだと思ったのだが残念だ。私の今一番の悩みは、姫の結婚なのだが……」
「私は何も結婚しない、などと申してはいないでしょう。私は妃ではなく女王となる身、その夫となる人物は、慎重に見定めたいのです」
「そう言われてもな、最近各地がうるさくなっておってな」
「あの義父上様、姉上様。私のことをお忘れにならないよう、お願い申し上げます」
「おお、すまぬな。クローディアの婚姻話になると、時と場所を忘れてしまう」
「いい加減になさってくださいませ、お父様!」
「すまない」
 王は玉座の上でも娘の結婚相手について悩ませているのと思うと、少し同情の心を寄せたくなる。その最愛の娘は、父を迷惑そうに煙たがっている。普通の親子の姿を垣間見た。
「ところで今話に出てきたラヴィリアなのだがな、きっと驚くぞ」
「お父様、キールクラインはおそらくラヴィリアに会ってきていますわ」
 王はクローディアの言葉に首を傾げる。
「なぜ分かるのだ?」
「そういう約束なのですわ。そうよね?」
 クローディアはキールクラインの方を見ると、王にも話が分かるようにと説明を促した。
「はい、旅立ちの際一つ約束を交わしました……帰国した際は必ず最初に会いに行くと、陛下申し訳ございません、私は王城に上がるより先にラヴィリアの元に参りました」
「……そうか、まあよいまあよい。男なら守らなければいけない約束の一つもあろうて。それならば話は早い。ラヴィリアは美しい娘になっていたであろう?」
「はい、見違えました」
「二人は幾つになった?」
「私もラヴィも来月が生まれ月ですので、ちょうど十七になります」
「そうか十七か……早いの。もうそんなに経つのか……よし、今宵はそなたの帰還の祝宴会を行うぞ、こんなめでたい日はない!」
「お父様、準備は私にお任せください」
「クローディア、任せたぞ。キールクラインは祝宴会までしばし旅の疲れを休めるがよい、ロイト家にも姿を見せておやりなさい。そなたの母上が首を長くして待っておるぞ」
「はい、ありがとうございます」

   * * *

 キールクラインは謁見の間から退出して、城の長い階段を降りていた。城は広大なため移動するのにも一苦労だ。ようやく階段を下り終わると歩みを止めた。
「まったく……突然現れるのは止めてください、心臓に悪い」
 独り言が多くなったと自認していたが、今のは違う。
 話しかけた相手は、クローディア王女であった。先ほどまで玉座の横にいたというのに、どうしたら自分より先回りが出来るのだろうと、疑問が沸く。
「当たり前よ、私の方がこの城のことをよく知っているのですもの。それよりキール、あなた王に言われた通り実家に帰る気なの?」
「王様命令ですから……それに俺だって久しぶりに母さんには会いたいですよ」
「……なら何も言わないわ。じゃあまた後でね。早めに帰ってくるのよ、いろいろ支度があるのだから、逃げたら承知しないわよ」
「はいはい、お姉さま」
 クローディアはキールクラインの返事を聞くと、手を振ってじゃあね! と去って行ってしまった。
廊下に一人取り残されたキールクラインは、クローディアとの会話のある一節が脳内をリフレインする。
――実家に帰る気か……
 キールクラインは明かり取りの窓から空を見上げると、ため息を漏らした。『実家』という単語に、多少なりともストレスを感じている。それはまるで小魚の骨が喉に引っ掛かるような、小さな痛み。しかし確実に気分を憂鬱にさせる。小骨の正体は分かっている。
 キールクラインの実家ロイト家は、賢者最高峰の家系と言われている。賢者の資格を持っているのが当たり前。しかし一番血の濃い当主家に生まれたキールクラインは、一族の輪から少し外れている。生まれて間もなく国王に引き取られ、乳母のマーシャに育てられた。教育係と従者は城の中に仕えており、実家のロイト家に帰る必要はなかった。
 里帰りは年に数回ほど、そんな状態ではロイト家の中には、自分の居場所などないに等しい。
 戻るのを躊躇う理由は、それだけではないのだが……。
 キールクラインは、先程乗ってきた馬車に再び乗り込むと、一路ロイト家へと向かった。王城よりは見劣りするが立派な門を潜り、馬車は止まる。馬車の前には大勢の使用人が、キールクラインを出迎えに出てきていた。
 キールクラインは城を見たとき「帰ってきた」と思ったが、ロイト家の門を潜ってもなんの感動も沸いてこなかった。それより圧迫感で息苦しかった。足を一歩外に踏み出すと、人々の声がわっと耳に入る。
「御帰還おめでとうございます、キールクライン様」
「おめでとうございます」
「お帰りなさいませ!」
 その多くが見覚えのない者たちばかりで、どう声を掛けていいのか悩む。おそらく表情が強張っているであろうことを自覚する。人々は館の奥まで続いている。ようやく人垣も終わりが見えた時、知った者の顔があった。キールクラインは、足早に進み出るとさっと頭を垂れた。
「父上、母上、ただいま戻りました」
「よくぞ戻った、キールクライン!」
 キールクラインの父は、キールクラインより少し背が低く中年の終わりにさしかかっている。威厳のある風体をしており、髪の色は父ゆずりだった。
「キールクライン、よく無事で」
 母は息子の手に縋り付くと、碧色の瞳からほろほろと涙がその頬に伝う。
「母上、泣かないでください。あなたの息子は無事に帰ってきました。どうか笑ってください」
 キールクラインの母は、息子の願いを聞きいれ、精一杯の笑顔を見せてくれた。その表情は、キールクラインによく似ている。顔は母親ゆずりだった。
「私より大きくなりおって、ところで賢王になる為の試練は無事に終わったのか?」
「はい、もちろんでございます。習得すべき魔術の全てを身に着けてまいりました」
「……それならば良いのだが、たった五年で戻るとは、本当に大丈夫なのか? 現賢王の際は、もう少し時間が掛かったぞ」
 キールクラインに課せられた試練とは、各地に伝わる全属性最高位の魔術の習得だった。全ての習得には賢者の資格を持っている者でも、容易ではない。魔術の属性には生まれ持った、得手不得手がある。どうやら父は息子を疑っているようだ。
「父上、今のお言葉は、私をお疑いになっているということでしょうか?」
「あなた! 何て事を言い出すのです。キールクラインは努力をして短期間で戻ってきたのですよ。ここは褒めてこそです」
 母が父の言葉に怒ってくれた。それだけで十分だと思う気持ちと、売り言葉に買い言葉で応戦してしまった自分の浅はかさを恥じた。
「ありがとうございます母上。父上、生意気な口をきいてしまい申し訳ございません。一日でも早く戻ろうと寝る間も惜しんで精進いたしました。証拠にいつでも全魔術をお見せすることも出来ますので、おっしゃってください」
 ここは母の顔を免じて引くべきだ。
「……そうか。疑って悪かったな。今のは、私に非があった。詫びよう」
「いいえ、よろしいのです」
「だがこちらは引かぬ。キールクライン、お前は、国王殿下に謁見するよりも先に、ファイファー家の小娘のところに行ったというのは、真か!」
――やはり、そう来るか。
 キールクラインは、この話題が上がることをはじめから覚悟していた。こうなるのが分かっていたため、実家に戻るのを、素直に喜べなかったのだ。
「はい、父上。ファイファー家のラヴィリアとは約束がありましたので」
「なんたることだ! よりによってファイファー家の!」
「お言葉ですが、父上。ラヴィリアは私にとって幼少の頃より一緒に育った、大切な存在なのです。将来同じ役目を果たす同志と……」
「黙れキールクライン! お前はファイファー家に毒されおったか!」
「あなたやめてください! せっかくキールクラインが帰ってきたのですよ」
「だがな! 寄りによって……」
「父上、前々からお聞きしたいと思っていたのですが、何故そのようにファイファー家を毛嫌いなされるのですか?」
「……簡単に説明など出来るか! 根本的に我々とあちらでは気質が違うのだ」
「では説明出来ないような理由でいがみ合っているのですか?」
 母が間に入るが、父息子の会話は平行線をたどるばかりだ。
「あなたも、キールクラインもおやめなさい!」
 とその時であった。三人の前に一人の少年が小走りで近づいてきた。
「大きな声を出されてどうなされたのですか?」
 少年は一人前に賢者のマントを着ている。だがそのマントはこの少年にはまだ大きいようで、裾を少し引きずっていた。
 少年は二人を「父、母」と呼んだ。声を荒げる二人をどう相手してよいのか、戸惑っているようだ。
「リーゲルだね、大きくなったな」
 キールクラインは、少年に歩み寄るとにっこり微笑んで頭を撫でた。
 年の頃は、キールクラインより四,五歳年下であろうか。不思議そうな面持ちでキールクラインのことを見上げている。
「顔を忘れられても仕方がないか」
 このキールクラインに頭を撫でられている少年は、ロイト家の次期当主。名前をリーゲルト・ティム・ロイト、キールクラインの五歳違いの弟だ。
 リーゲルトがキールクラインと最後に会ったのは、七歳の時だ。それからお互い姿がずいぶん変わったのだからこの反応も仕方がない。
「……もしかして、キール兄様ですか?」
「そうだよ!」
 ようやく兄であることに気づいたのか、リーゲルトは顔をパッと明るくさせる。
「お帰りなさい!」
 そして、抱き付かれた。今日はいろんな人に抱き付かれる日だと思う。
 ロイト本家では、長男が賢王になり、次に生まれた者が家の後を継ぐことになっていた。もし跡継ぎがいない場合は、分家から養子を得るのが、決まっていた。
 ラヴィリアのファイファー家では、その後子供が産まれなかったため、ラヴィリアの従弟にあたる男子が跡継ぎに選ばれた。その情報は、ラヴィリアの口から直接聞いた。『私にも弟が出来た』と自慢されたのだ。
 リーゲルトは、キールクラインの帰還に素直に喜んでいるようだ。
 この家にも、そんな弟がいると思うと救われる。
 キールクラインは、リーゲルトの身体をそっと抱き返す。そして彼の耳に口を近づけると、そっと囁く。
「リーゲル、俺の分まで母上を大切にしてくれよ」
「兄様?」
「ごめんな、不出来な兄で」
 キールクラインはリーゲルトを解放すると、父と母に向き直り深々と礼をした。
「父上、母上、私はこれにて失礼いたします。今晩ティシャナ国王陛下が私の帰還の祝いに、祝宴会を開いてくださるそうです。正式な招待があると思いますので、是非おこしください」
 キールクラインは、言い終わると三人に背を向け、館の玄関へ歩き出した。
「兄様! お待ちください」
 リーゲルトは、去ってゆくキールクラインを追いかけようとしたが、その行動を制止するかのように、父の手が伸びた。
「放っておけ!」
「父上様!」
「あなた!」
「あの子は……いやキールクラインは、ロイト家の人間ではあるが、違う世界の人間だ。追わなくていい」
 キールクラインは、父の言葉から逃げ去るようにして、館を後にした。
 馬車に乗るまで、一度も振り向くことはなかった。
 
 父も母も弟も嫌いではない。父の口うるささも我慢出来る。だがロイト家の気質だけは好きにはなれなかった。ずっと城の中で育ったせいなのだろうか。ラヴィリアと共に過ごしたため、両家の対立は目の前でよく見ていた。全てを好きだと言ってはいけない。
  
 馬車に乗り込んだキールクラインは、自分の手荷物を漁った。その中には、修道院を去るときに、マーシャから受けとったマフィンが入っていた。実家に帰ったらリーゲルトと一緒に食べようと思い、持ってきたものだったが、ムダになってしまったようだ。キールクラインはマフィンを千切ると、口に頬張った。甘いはずのマフィンは、少し苦く感じた。

   * * *

 キールクラインは、実家から真っ直ぐ城に戻ってきた。本当はもうすこしティシャナの城下街を馬車で見て回りたかったのだが、出際にクローディアに言われた言葉が耳を離れなかった。幼少の頃、怒ったクローディアが乳母のマーシャの次に恐ろしかった。女性を怒らせてはいけないと幼心に学んだものだ。どうやら自分は、今も昔も怖いものに変わりがない。キールクラインはそんな自分に苦笑する。
 馬車が城内の敷地内に入り静かに止まる。キールクラインは馬車の扉のノブに手をかけて慌てて引っ込めた。
――おっと。
 今日から馬車の戸は自ら開けてはならない。開けてもらうのを待たなくてはならない。それがキールクラインの王城での立場だ。数年そういう生活から離れていたので、なんでも自分でやろうとしてしまう癖が出てしまった。習慣とは実に恐ろしい。

 城には帰ってきたが、その後の行動は指定されていなかった。
 さてさて、身支度があるとはいえまだ時間に余裕があるだろう。
 おまけに今なら成長したキールクラインの顔を知る者はいないはずだ。これは城の中を自由に歩き回る絶好のチャンス。
――こういう場合、ギリギリまで逃げるにかぎる。
 しかし、キールクラインの計画は扉が開いた瞬間、脆くも崩れ去る。
「キールクライン様、お帰りなさいませ。お早いお戻りで」
 馬車の扉が開き地面の上に降りると、扉のすぐ脇に男が恭しく跪いて控えていた。服装は白に金の刺繍の入った制服であった。それは臣下の中でも一握りの高官が着ることを許されるものだ。頭を垂れているので表情は見えないが、薄い金髪を真ん中で分け自然に流している。
 キールクラインはこの金髪に見覚えがあった。
「あ、チェスト……」
 キールクラインは、この男を『チェスト』と呼んだ。
 チェストと呼ばれた男は、キールクラインに名前を呼ばれたことでその場から立ち上がる。
 立つとキールクラインより背が高く、瞳は薄茶の切れ長だ。実に女性受けしそうな甘いマスクをしている。本人も自分の容姿の良さに自覚があるのだろう、身だしなみ以上に外見の手入れをよくしているのが見受けられる。今はその整った口元に薄く笑みを蓄えキールクラインに近寄ってきた。
「なんだ、思ったより早く追いついて……っ!?」
 チェストは馬車の扉にドンと手をつくと、キールクラインが逃げないよう自分の身体と戸の間に追い込んだ。
 そして周囲に極力聞こえないよう、キールクラインの耳元に小声でささやく。
「やってくれたな、このくそガギ!」
 どうやら彼はかなりのご立腹のようだ。顔は笑顔のままだが、荒い鼻息が掛かる至近距離から見る目は全然笑ってない。こういう目のことを『据わっている』というのだろうか。
――うわあ、これはヤバイやつ。
 キールクラインは両手の平を顔の横に上げると降参のポーズをしてみせる。
「は、話せば分かるから。ねっ」
「何が『ねっ』ですか! 私が各所からどれだけお小言を食らったと思います? 聞きたいですか? ああ、聞きたいですよね?」
 怒りに任せて愚痴を捲し立てている彼は、チェスト=ボロニア。
 彼はキールクラインの唯一無二の従者にして試練の旅に同行した重臣である。なぜ彼がここまで怒っているかというと、キールクラインには心当たりがありすぎた。
「ご、ごめんなさい!」
 平身低頭許しを乞うしかない。従者に頭を下げる主君とはいったいどうなのかと思うが、それがキールクラインとチェストの日常であった。
「謝って済むなら司法はいりません! まさか私も最後の最後で撒かれるとは、思いもしませんでしたよ」
 チェストの悲鳴に近い訴えが頭の上から聞こえる。
 大切な事なのでもう一度言うが、チェストはキールクラインの旅に同行していたのだ。しかし本日キールクライン一人でティシャナに足を踏み入れた。つまりは、チェストは帰路の途中キールクラインに置き去りにされたのだ。チェストはそのことで怒っている。
 それは今から数日前の出来事。鳥も寝静まる深夜、キールクラインは宿泊していた宿屋を一人でこっそり出立した。夜通し全力で移動したのでチェストより半日は先行出来たようだ。しかし賢者相手に半日で追いついてくるとは、この従者の根性も相当なものだと感心してしまう。
 キールクラインの帰国は、国の一大事だ。チェストの話では事前に帰国の連絡を入れる手はずでいたようだ。しかしキールクラインはその連絡の直前にチェストの前から姿を消した。
「本当に申し訳ございませんでした!」
「いつも言っているでしょう。坊ちゃんが自由に動きたい時は上手く取り計らうと! なんで信用してくれないんですか」
 チェストは、キールクラインを『キール様』か『坊ちゃん』と呼んだ。人目がないとき限定だが、子供の頃からの付き合いのため、今でもこう呼ばれている。
 話を戻すが、もし関係各所にキールクライン帰還の連絡が入っていたら、ラヴィリアに最初に会いに行くという約束は守れなかっただろう。その事を知っていたので失踪したのだ。
 これがどういう事か重々承知している。怒られて当たり前なのだ。全面的にキールクラインに非があるのだから。だから今日は全力で謝る他ない。
「全面的に俺に非があります……でも、チェストを巻きこめなかった。本当にごめん!」
 たぶんこの敏腕従者に相談すればラヴィリアに上手く会わせてくれただろう。しかしキールクラインはそのせいでチェストにいらぬ中傷が飛ぶのが怖かった。キールクラインの従者を外されるならまだいい。チェストはロイト側の人間、一度信用がなくなれば一族の中で生きてはいけなくなる。それくらい両家の関係は拗れているのだ。キールクラインがラヴィリアに会いに行った事を知った父でさえ、数年ぶりに戻ってきた息子にあの塩対応だ。大切な臣下を巻き込むわけにはいかなかった。
 チェストは主人の言いたいことが分かったのか、ため息を漏らすとキールクラインを解放した。どうやら怒りの鉾を収めてくれたようだ。
「そこまで分かってやったんですね。……ご実家でずいぶん怒られたでしょうに」
「……まあね予想通りの反応だったよ。今、めちゃくちゃ心が折れています」
 チェストは、キールクラインの肩に手を乗せるとポンポンと二度叩く。それはまるで子供をあやすように優しい。
「お疲れさまです」
「チェストなら許してくれると思った」
 キールクラインは顔だけ横に傾けると、上目使いでチェストを見やる。
「……あなたはいくつになったんです? もう甘やかしませんよ!」
 この従者チェストはキールクラインが六歳の頃から仕えてくれている。歳はチェストの方が十歳年上だ。幼少の頃、ベソをかいて彼の背に負われたのを覚えている。キールクラインにとってクローディアが姉ならば、チェストが兄だった。チェストにはいつも貧乏くじを引かせてしまい悪いとは思っている。おまけに試練の旅に付き合ったせいで婚期が遅れてしまった。これは主人である自分が責任を持って気立ての良いお嫁さんを見つけてこなければならないと思っている。
 チェストは一通りキールクラインにお小言を言い終わると、再び従者の顔に戻る。キールクラインの横にすっと控えると手を二度打った。
 その音を合図に小奇麗な女性達が静かに現れた。全員キールクラインに恭しく挨拶をすると、チェストの傍らに身を屈め控える。彼女たちは服装から王城に仕える女官だ。
「さて反省していただけたようなので、この後は私に従っていただきますよ。女官の皆々様方、手加減は無用でございます。取り掛かってください」
 チェストがそう告げると女官達は一斉に動き出す。
「チェスト様、かしこまりました」
――へっ?
 女官達はキールクラインを取り囲むと、その身から手早くマントと手荷物を奪い取る。
「キールクライン様、どうかお許しくださいませ」
 女官達は口では詫びているが、手を止める事はない。キールクラインは突然の展開に口をパクパクさせるだけで、何も対応が出来なかった。
「チェスト、何、これ?」
 ようやく絞り出した声は、チェストへの助け舟だった。
「クローディア殿下のご命令でございます」
「はいっ? 殿下の命令?!」
「はい、キールクライン様がその小汚い格好で城内をフラフラされては困るとのことです。お逃げにならないようにしっかり確保した後、速やかに旅の垢を落としていただくようにと」
「……そ、そうですか」
 キールクラインはただ笑うしかなかった。女官達も釣られてクスクスと笑っている。
 いくら自分にサボり癖があるとはいえ、ここまで警戒されるとは思わなかった。キールクラインにサボることを教えたのは、他ならぬクローディアである。
――あの王女様は、自分のことを棚に上げてぇ!
 それをチェストに命じたのも見事な采配だ。一度逃げられているチェストは意地でもキールクラインを逃がさないだろう。女官を集めての万全を期しての対応だ。キールクラインは今にもクローディアの高笑いの幻聴が聞こえてきそうだった。
 今回はキールクラインの行動パターンを熟知しているクローディアの勝ちのようだ。
――とほほ、俺の負けか。

   * * *

 キールクラインはまず城の浴室に案内されると、旅の垢を落とすため湯浴みをすることになった。
湯浴みが終わると今度は散髪が待ち構えていた。そこでは疎らに伸びていた髪を、均一に切り落とされる。やっと衣装部屋にたどり着いたときは、窓の外は日が傾きはじめていた。この時点で主人には疲れが見えている。たった数年だが、城の外で生活をしていた彼にとって、一連の時間は苦痛でしかないのだろう。
「服は自分で着ても……」
「そうは参りません!」
 キールクラインの言葉は女官達に聞き入れてもらえなかった。キールクラインは、諦めて彼女らに着替えを任せることにした。その間チェストは、傍らに控えていた。主人はこの期に及んで逃走するような腑抜けではないことは知っている。しかし念には念を入れて、見張っている。こちらに数度『助けて』と言いたげな視線が向けられるが、無視をした。
「慣れてください」
「はい」
 キールクラインのために用意されていた服は、今まで着ていたものとは比べられないほど、上等な布地を使ったものだった。賢者の服には、見事な刺繍が施され、長旅で色がくすんでしまった賢者のマントは、新品のものが用意されていた。そして数えるのが面倒なほどの装飾品の数々、これらには王家の紋章がさり気なく施されている。この分だと、キールクラインの体重は一、二キロ増えそうだ。キールクラインは、『ラヴィの気持ちが理解できた』と独り言を呟いている。
 身支度がすべて終わると女官達は、キールクラインに恭しくお辞儀をしてから部屋から出て行った。
キールクラインは、女官たちが全員外に出て行くのを確認すると、鏡に映る自分の身なりを確認した。
「これ誰だよ?」
 鏡の自分に向かってそう呟いていた。チェストは主人に近寄る。
「そちらが本来の姿です」
 数時間前までは、主人はくたびれた賢者の風体だったが、今はどこから見ても貴族の子息にしか見えない。
 腐っても鯛。いやいや腐ってはいなかったか。キールクラインは、元から殿上人だ。本来ならばチェストの身分の者が気楽に話しかけられない。たまたま縁があり、従者として仕えることになった。
 キールクラインの姿は、なかなか堂々としていて様になっているので、内心従者として鼻が高い。
 つい口がにんまりとしてしまう。まあ中味は変わってないので、注意を怠ってはいけないが……
「あーあ、あの格好気に入っていたんだけどな」
「これのことですか?」
 チェストは、布の包みから色褪せた緑色の布を取り出した。それは先ほどまでキールクラインが身に着ていたマントや服だった。
「それそれ! やっぱり持つべきものはチェストだね」
――そんなことわざを作らないでほしい。
 キールクラインのことだ、今まで着ていた服や持ち物は、手元に置いておきたいだろうと予想がついた。そこで着替えを手伝っていた女官達から一式貰っておいた。伊達に付き合いは長くない。
「煽てても何も出ませんよ。だいぶ傷んでいますし、どれを残しますか?」
「とりあえず一式取っておいて! あと……洗濯をしておいてほしいです」
 確かに。この服たちがどれだけ洗われていないのかチェストは知っている。洗濯は必須だ。
「かしこまりました。女官にキールクライン様が記念に残しておきたいと伝えておきます」
 とその時だった、部屋のドアが数度ノックされた。
 チェストが扉を開けると、来客を確認して室内に招き入れる。数人の城に仕える文官達が入室してきた。彼らは城の政や城内の出来事を取りまとめるのが仕事だ。
 文官達はキールクラインの前に跪くと、一声にキールクラインに祝辞を述べはじめた。
「キールクライン様、本日はおめでとうございます」
「ありがとう」
「キールクライン様、陛下並びに各家の当主の方々、ティシャナに滞在中の要人の皆々様がお待ちでございます」
「わかりました」
 チェストは対応を何も伝えていなかったが、主人はそつなくこなしている。これなら大丈夫そうだと、胸を撫で下ろした。しかし
「俺、終わるまで体力持つかな……」
 チェストの横を通り過ぎたとき、ポツリと弱音を吐いてみせた。
――まあそうでしょうね。
「頑張ってください」
 そう伝えるしか、チェストにはできなかった。

 キールクラインは、迎えの仕官達に先導されながら城の中を移動した。チェストはさらにその後ろについた。文官達がキールクラインを案内したのは、数時間前に通された謁見の間へ続く廊下だった。
「ねぇ、なんで謁見の間なの?」
 キールクラインが小声でチェストに質問してきた。
 キールクラインは、何故謁見の間に案内されるのか分からなかった。チェストは、キールクラインの質問の意味が理解出来た。城の中には祝賀会に相応しい演舞場やホールなどの設備がある。しかし今向かっているのは王に謁見するための、長い直線の大広間だ。人々が歓談などをする祝賀会には、利便が悪い場所だ。
「どういう段取りなの? まずは国王陛下にお会いしてからとか?」
 チェストはキールクラインの疑問に答えなければならない。一つキールクラインに黙っていたことがあった。どうやらそれを告げる場面に来てしまったようだ。
 チェストは立ち止まると先導していた士官たちに声かけた。
「皆様少々お待ちいただけますか。主人にお伝え損ねた事項がございます。しばしお時間を頂戴いただきたい」
 文官たちは、分かりましたお急ぎください。と言うと廊下の両脇に控えた。
「チェストどういう事だよ」
「白状します。チェストは坊ちゃんに少々いじわるしました」
「……はぁ?」
「今日のこれより行われるのは、祝賀会ではありません」
 チェストは知っていた。この後キールクラインに起こる事態を。しかし彼はそれを今まで黙っていたのだ。背任行為と言われるかもしれない。
「じゃあ何があるの?」
 チェストは、その質問に答える気はなかった。答えてはいけないと思った。
 キールクラインは、しばらく答えを待ってチェストを睨みつけていたが根負けしたのか、それに綺麗に整えた髪を無造作にかくと、深いため息をついた。
「……それチェストの独断で黙っていたわけじゃないでしょ。どうせ裏で動かしていたのは……まったく俺はいつまでも王女様の手の上なわけか」
 クローディア王女からの口止めがあったのは確かだ。しかしその要請を飲んだのはチェスト自身だ。自分はキールクラインの味方でしかるべきなのに。
「俺のこともうちょっと信頼してくれてもいいのに」
「どの口が言っているんですか?」
「……確かに」
 そういうとキールクラインは文官に聞こえないよう声を押さえて笑う。数えきれない前科が彼にはある。
「キールクライン様、ここからはお一人で」
 チェストはキールクラインの前に片膝をついて跪く。
「そんな、心の準備が何も出来ていない」
「大丈夫です。出来ます」
 チェストは幼少の頃よりその背を見てきた。出会った頃は、背がチェストの腰高ぐらいまでしかなかった。自分に見せる顔は、どこか頼りなくて甘えん坊だが、どこに出しても恥ずかしくない賢者だ。
 その両肩に重圧を背負って、信念を折られまいと足掻く姿を。賢者の長になるという重圧はいったいどれだけのものだったろうか。チェストは想像するしか出来ない。
「チェストは知っております。キールクライン様は秀でた才能をお持ちだ。しかしそのことに胡坐をかくことなく努力を怠らない。なのに最後の一歩でいつも怖気づく」
 キールクラインはこくりと頷く。
 チェストは立ち上がえると、キールクラインの両肩を支え謁見の間の方へ向き直させた。
 主の小さかった背は、屈んで視線を合わせる必要がないほど成長している。
「私がお助けできるのはここまで……後ろでちゃんと見ております。さあ顔を上げて前を向いていってらっしゃいませ!」
 チェストはそう耳打ちをすると、キールクラインの背中を力いっぱい押した。
 キールクラインは、押されたことでヨロヨロと前に進み出る。チェストの方に振り返ろうとしたのか立ち止まった。しかしそれを堪えて文官たちを携えて歩き出した。
 キールクラインはチェストに見送られて、晴れ舞台の大扉を潜る。

――いってらっしゃい、私の坊ちゃん。
 チェストは胸の高さで小さく手を振る。その場で主の後ろ姿を見送った。

   * * *

 文官達は扉の前で立ち止まった。こちらでお待ちください、まもなく扉が開きますご準備ください、と言い添えてその場を退いてゆく。この扉の向こう側が謁見の間だ。
「キールクライン・フォン・ロイト様!」
 入場者を知らせる呼び声と共に、目前の大扉がゆっくり開いてゆく。扉の向こう側の光景は、先ほどキールクラインが訪れた時とは様変わりしていた。
――こ、これは、いったい……。
 昼は、国王と王女の座とそれに続く階段があるだけだった。しかし今は何百もの人の視線があった。もちろんその場には、祝宴会の準備など出来ていない。玉座へ続く赤い絨毯の両端には、ティシャナの大臣をはじめ、各家の当主、ティシャナに滞在中の他国の要人達が並んでいる。
 全ての人々が第一級の正装をしている。キールクラインが歩くべき道を教えてくれていた。
 そして一番驚いたのは、玉座の両脇にキールクラインの叔父にあたる賢王と、ラヴィリアの叔母にあたる巫女王の姿があった。

 キールクラインは、自分の置かれた状況を瞬時に理解することが難しかった。
 数刻前に会った国王は、『祝宴会をする』と言っていたはずだ。しかし数分前従者のチェストは、これから起こるのは祝賀会ではないと教えてくれた。
――これじゃまるで、戴冠式だ。
 人々の視線に固まっていたキールクラインに、仕官がそっと近づくと耳打ちした。
「キールクライン様、どうか陛下の御前へ」
 その言葉に我に返ると、赤い絨毯の上を人々の注目の的となりながら歩んだ。その途中には、先程会った両親と弟の姿もあった。キールクラインは、玉座の階段下まで行くと跪いた。
そして、無礼は承知していたが、国王に話し掛けた。
「国王陛下、これはどういうことなのでしょうか? 私には、この状況がつかめません」
 しかし、誰もキールクラインの行動を非難する者はいなかった。
「キールクラインよ、お前に何も告げていなかったことは詫びよう」
「勿体無いお言葉です」
「キールクラインよ、よくお聞きなさい。そして皆の者も聞くのだ。本日ロイト家の長子キールクライン・フォン・ロイトが試練の旅を終え、無事ティシャナに戻った。これはティシャナ王国にとって大変喜ばしいことだ。そこで皆に集まってもらったのは他でもない、私はこの良き日にキールクライン・フォン・ロイトに正式に次期賢王の位を与えようと思う!」
 室内は、国王の宣言にどよめきの声があがった。
 しかしそれは徐々に歓喜する声から、ティシャナ聖王都の繁栄を称える声へと変わっていった。
キールクラインは生まれた時から賢王になることを決められていたが、それは曖昧で暫定的なものだった。だが試練の旅を成功させたキールクラインは、賢王になる資格を全て満たしたことになる。もはや誰も賢王就任を反対出来る者はいない。試練の旅は、困難かつ危険なもので有名だった。過去、試練の旅に出て達成出来なかった者もいる。
 キールクラインは、国王の突然の宣言に呆然とするしかなかった。
「キールクラインよ、承知してくれるな」
 国王は呆然とするキールクラインに語りかけた。国王の言葉に今まで騒がしかった室内が、水を打ったように静まり返った。その場にいる全員がキールクラインの声を待った。
「陛下」
 キールクラインは、自分を取り戻すと至極真面目な表情で答えた。
「私は今日試練の旅より帰還致しました。しかし、私は……人間としてはまだまだ未熟者でございます。到底次期賢王の位を受ける器ではございません」
 つまりキールクラインの答えはノーだった。しかし国王はそんなキールクラインに優しく微笑を投げかけた。
「案ずるでないキールクライン。私はもうしばらく王の席を退くつもりはない。お前が賢王としてその叡智を揮うのは、我が姫クローディアが王位に付いたときだ」
 国王は、隣に控えているクローディアの方を指し示した。
「そうですよ、キールクライン」
 キールクラインは、はっとクローディアを見上げた。
「あなたは私の賢者なのです、私の賢王なのです。これはあなたが生まれた時から決められていたこと」
 クローディアは、キールクラインに真っ直ぐ視線を注いで語りかけた。キールクラインは、黙ってクローディアを見つめ返す。クローディアもキールクラインの視線を真っ向から受け止めた。
「殿下、私がお仕えするのは殿下ただ一人と。幼き日より誓いを立てて参りました。その心は今も変わりはございません」
 平常心を取り戻しはじめたキールクラインは、持ち前の思考を動かしてクローディアの心を探り始めた。今日のこの場は、自分が帰還して数時間で用意が出来るものではない。前々から準備されていたはずだ。クローディアは、キールクラインに再会したときからこうなることを知っていたはずだ。しかし、このことをキールクラインに告げなかった。それはどうしてなのか? キールクラインは、ありとあらゆる可能性を脳裏に巡らせた。肯定的な考えも否定的な考えも平等に分析にかける。
 自分を試しているのだろうか? 俺が賢王に相応しいかどうか、様子を見るために黙っていたのだろうか。
――いや、それは違うか。
 キールクラインは、クローディアの一連の行動を思い返した。帰還を心より喜んでくれた。あの態度に嘘偽りがあろうか。自分に何も告げなかったのは、自分に対する絶大な信頼と、幼い頃からの逃走癖を熟知している姉から弟へのいたずらだ。これは俗に言う、サプライズというやつだろう。
 自分達はどんな場に置かれても心だけは通じていると信じている。そうでなければ、腹を割って語り合った子供時代の時間は、ただのオママゴトと同じになってしまう。しかしこの数年間は、お互いに会うことさえなかった。もしその間にキールクラインのモノの考え方や性格が変わったとするならば、またそれはクローディアにも有りえる。これはお互いに危険な選択だ。
――俺の性格の半分は、あなたの影響で形成されているので、弟の不始末はちゃんと責任とってくださいね。
 キールクラインのクローディアに対する思考は、マイナスには傾かなかった。反対に思わず破顔してしまいそうになるようなものだった。どうやらそれはクローディアも同じだったらしく、黙ってキールクラインを見つめていた口元が微笑んでいる。サプライズ成功にご満悦のようだ。
「キールクラインよ、クローディア王女が王位に付くまで、時間は十分にあるのだ。賢王としてふさわしい知識と経験を積むのだ。承知してくれるな」
 キールクラインは、国王とクローディアを交互に見上げた。
――いいでしょう。俺はいつでもお姉ちゃんの賢者でした。賢王になったとしてもそれに変わりはない。
 この問い掛けは、今までも、そしてこれからも、声にしてクローディアに伝えることはないだろう。しかしキールクラインは、自分の無言の声がクローディアに届いているという確信があった。
「はい陛下、賢王の位、お受けいたします」
 それに、クローディアは王位継承という自分よりもさらに重い定めから逃げず戦っているのだ、自分だけ逃げるのは、男として恥ずかしい。
 キールクラインは、二人に深々と頭を下げた。
「よくぞ承知してくれた」
 再び謁見の間に歓喜が上がる。国王は両手を広げて、室内にいる者に静まるように命じた。
「皆の者、喜ぶのはまだ早いぞ。今日はもう一つ皆に良い知らせがある。私は次期巫女王候補ラヴィリア・フォン・ファイファーの禁を解除することをここに宣言する」
「えっ?」
 キールクラインは、耳を疑った。ラヴィリアの禁を解除するということは、彼女も巫女王の修業が終わったことを意味する。つまりキールクラインと同様に巫女王になる資格が満たされたことになる。そしてさらに重大なことは、今まで架せられていた数々の制約から解放されるのだ。
「そして、キールクライン同様、正式に次期巫女王の座を与えようと思う!」
「ラヴィリア・フォン・ファイファー様!」
 謁見の間に、ラヴィリアの入室を知らせる声が上がった。キールクラインは、振り返り入口を凝視した。
「ほとんどの者が、ラヴィリアの姿を見るのは始めてのことになるであろう。よくその眼で見るがよい。この者が次期巫女王のラヴィリアだ」
 本日、謁見の間は三度目の歓声と人々のどよめきがあがる。開いた扉の先には、美しく着飾ったラヴィリアの姿があった。数刻前、身支度を整えた姿を見ているが、あれはやはり普段着に過ぎない。この場にいる誰よりも輝いているだろう。
 ラヴィリアは、大勢の前に姿を見せるのはこれが初めてとは思えないほど堂々としており、気後れがなかった。その麗しい姿に、謁見の間にため息が漏れる。確かに顔形はラヴィリアだ。しかし先ほど修道院で会った人と同一人物なのか疑いたくなる。
 ラヴィリアは、キールクラインの横に並ぶと、一瞬視線をこちらに投げた。それは一秒もないアイコンタクト。キールクラインは、ドキリと心臓が脈打つのを自覚する。ラヴィリアは何もなかったかのように、長いスカートの裾を掴むと玉座へ跪いた。
「陛下、この度は私の禁を解いてくださいましたこと、お礼を申し上げます」
「ラヴィリア、よくぞ今日まで耐えてくれた。国の者を代表して礼を言おう」
「勿体無いお言葉です」
「さあ二人とも上がりなさい」
 キールクラインは玉座への階段を登ろうとしたが、横を見るとラヴィリアがその衣裳のせいで階段を登るのにもたついていた。自分が手伝いを買って出てはいけないのでは、という考えが一瞬頭を過ったが、気づけば手を差し出した。
 ラヴィリアはそれを見て声は出さず、『ありがとう』口を動かして感謝を伝える。二人は連れ立って階段を登ると、国王とクローディアの前で跪いた。
「さあクローディアよ。ここからはお前の出番だ」
「はい」
 クローディアは、父王に促されると跪く二人の前に立った。
「まずは両名には感謝の意をささげます。今日まで数々の困難がその身にあったかと思います。ありがとう、そしてこれからは臣下として頼みます」
「殿下、ありがとうございます」
 体勢はそのままで謝意を伝える。
「キールクライン・フォン・ロイト、心してお聞きなさい。私が王位を就いた暁には、そなたは我が知識となり力となり、持てる力の全てを使いティシャナ王国を更なる平和と繁栄へ導くことを、ここに誓いなさい」
「このキールクライン・フォン・ロイトは、殿下が王位に付いた暁には、殿下の知識となり力となり、全身全霊を持ってティシャナ王国を更なる平和と繁栄へ導くことをお約束いたします」
「その誓い聞き届けました。クローディア・ルン・ティシャナは、そなたを次期賢王に任命します。その位の証として、ここに賢王の杖を授けます」
 クローディアは、傍らにいた賢王から黄金に近い飴色の宝玉を受け取ると、キールクラインに差し出した。
「拝命いたします」
 キールクラインは、クローディアの手から宝玉を受け取った。
「そして、ラヴィリア・フォン・ファイファー、心してお聞きなさい。私がこのティシャナ王国の王位を就いた暁には、そなたは我が力となり、民の声を聞く心になり、その持てる力の全てを使いティシャナ王国を更なる平和と恵み多き国へと導くことを、ここに誓いなさい」
「殿下が王位に付いた暁には、このラヴィリアは殿下のお力となり、民の声を聞く心になり、力の全てを注ぎ、ティシャナ王国を更なる平和と恵み多き国へと導くことをお約束いたします」
「その誓い聞き届けました。その誓いの証として代々巫女王になる者が受け継ぐサークレットを授けます」
 ラヴィは跪いたままクローディアにサークレットを受けた。
「クローディア・ルン・ティシャナは、そなたを次期巫女王に命じます」
「拝命いたします」
「さあ二人とも立ちなさい! そして、そなたの力を皆に示すのです」
「はい」
 キールクラインとラヴィリアは、クローディアに促され立ち上がった。そして王座の下に控えている人々の方に体を向けた。大勢の目は二人に注がれる。
 二人はお互いを見合った。これから何をしなければいけないかを理解していた。
 先にキールクラインが前に出た。
 クローディアから受け取った宝玉は賢王の杖だった。魔力を注ぐ前はこの形をしている。そして幼少の頃より賢王から聞かされていて、これを杖に変化させるのが、試練の旅を完成させた証だと。これが出来なければ賢王になる資格はない。緊張してはいなかった。だが自分の鼓動が速いのが分かる。
キールクラインは、何度も自分に言い聞かせていた。
――何も問題はない。何も。自分はきちんと試練を終えたのだから、証はある。
 ゆっくり息を吐いて整えると、すっと目を閉じた。そしてキールクラインは、宝玉を握りしめている手を頭上に掲げた。
「賢王の杖よ、我が魔力に答えよ」
 キールクラインは、宝玉に魔力を送り込んだ。その瞬間キールクラインの手の中から眩い光が室内を照らし出した。
 目も眩むような眩しさに、人々は一瞬視界を奪われた。しかしキールクラインだけは、自分の手元で起こっている現象をつぶさに見ていた。
 光は手の中からこぼれ落ち、その姿を象り始めた。光は一本の長いラインになり、それはキールクラインの身長を越すほどある。その重さは羽根のように軽く、色は白銀色。光は金属へと変化した。
 キールクラインは、賢王の杖を生まれてはじめて手にした。総オリハルコン製の杖、頭部には上品な細工の中に、巨大な魔力を感じるオーブがはめ込まれている。実に優美だが、その内在している威力を考えると、恐ろしくなる。見事、賢王の杖がキールクラインの手の中に現れた。
 キールクラインが杖の具現化に成功したことによって、室内に再び歓声が巻き起こった。しかし、賢王の杖を具現化させたキールクラインは、そのまま微動だにしなかった。
 賢王の杖からは、巨大なプレッシャーを感じていた。それは今まで扱ってきた杖が玩具に思えるほどのものだ。この杖こそ賢王になる者が受け継ぐにふさわしい杖だ。
 そんなことを思う一方、賢王の杖のプレシャーにかなり押され、少し気を抜けば意識を持っていかれそうになる自分がいる。
――これは、予想以上だ。
 その場にいる誰もが、キールクラインのその様子に気づくことはなかった。しかし、一人だけは違った。キールクラインの傍らに叔父にあたる現賢王が歩み寄ってきた。そして耳元でそっと呟いた。その声は、室内の歓声で傍に居るラヴィリアやクローディアにも届くことはなかろう。
「キールクライン、今のお前ではその杖は少し荷が重たかろう、私に渡しなさい」
「しかし、叔父上」
 キールクラインは、一瞬プライドが邪魔をした。
 いくら自分が未熟とはいえ、この五年間賢王になるための試練の旅をしてきた。
 それは幼い未熟な自分には命がけのものだった。死を覚悟する瞬間に出くわしたこともある。しかしキールクラインは、歯を食いしばり必死に試練を乗り越えてきた。賢王になりたいから頑張ったのではない。
 この国に帰りたかった。自分を待つ人達に再び会いたかった。その思いが強かったから、乗り越えられた。おかげで、精神力も魔力も格段に上がった。多くの魔術を身に付け、賢者の中でも最高の技術と知識を貪るように吸収してきた。少なからず自信があった。それなのに今の自分は……そんな様子を見ていた賢王は、そっとキールクラインの肩に手をおいた。
「それで良いのだよ。賢王の杖は癖が強い。始めから扱える者などいないのだよ。私もね、先代に預かってもらったのだから」
 キールクラインは、叔父の言葉に目を見張った。
「叔父上も、ですか?」
「そうだよ。そして先代は、私にこう言いなさった」
 現賢王は、声のトーンを落としてキールクラインに耳打ちした。
「お前の守りたい者のために強くおなり」
 キールクラインは、現賢王の顔を間近で見た。そこには幼い頃から見知った優しい叔父の表情があった。
「……はい」
 キールクラインは、そういうと現賢王の方に体の向きを変えると杖を渡した。それによって室内は、さらに歓声が高まる。
「ここだけの話、皆には次期賢王が現賢王に杖を渡すのは伝統だと思われている。実際は……当人同士の秘密なのだけれどもね。次はキールクライン、お前が秘密を語る番だ」
「はい、賢王」
「いい返事だ」
 キールクラインは、この物腰の柔らかな叔父を幼い頃から間近で見ていたが、今日ほど叔父の偉大さを身に感じることはなかった。賢王の杖を持っても余裕さえ伺える。キールクラインは、真の賢王の何であるかを垣間見た気がした。現賢王は、キールクラインを促し国王とクローディアに挨拶を交わした。そしてキールクラインは、賢王の傍らに立つことを許された。
 一人残されたラヴィリアは、サークレットを頭の上に載せた。
 衣裳は豪勢なのに、なぜか髪飾りが質素だと思っていたが、そのサークレットを被ると彼女の姿はパズルのピースが全て合うかのように、完成された。そのサークレットのために、髪飾りが配置されていたのだ。室内は時計の針が落ちた音も聞こえてしまうように静まりかえる。
 ラヴィリアは、一つ大きく息を吸うと、その喉から声を滑り出す。最初は小さな声ではじまったそれは、少しずつ大きくなってゆく。音響の良い謁見の間でラヴィリアの声は室内に響き渡る。彼女は詠いはじめた。決まった歌詞はない。神々や精霊にささげる祝詞だ。言霊に乗せて、神への信奉と自然への恵みに感謝する。キールクラインは巫女ではないので、その言葉の意味が分かるはずもなく、しかしラヴィリアの声を聞いていると、何か暖かな物に包まれるような安らぎを感じた。
 ほどなくして室内に風が巻き起こる。風に乗って入ってきたのか、無数の花びらが室内に舞い飛びはじめる。それは見たこともない光景だった。精霊たちがラヴィリアの声が届いた証として祝福しているのだ。目に見える現象が動く巫女の御業はそうそうない。
 ラヴィリアの実力が示された。
 ラヴィリアの祝詞が終わると、静かだった室内が夢から覚めたように、音が戻ってくる。再び今日何度目かのどよめきと歓喜の声が上がる。
 ラヴィリアは大衆にお辞儀をすると、迎えに来た巫女王の後に続いてその横に立った。
 ラヴィリアは、自分を見ているキールクラインの視線に気がついたのか微笑んだ。そしてそれと同じように室内の人々に笑顔で応えている。
 キールクラインは気づいてしまった。クローディアとラヴィリア、二人の姿は雰囲気が違って見えるではないか。彼女達は、これから国を導いてゆく立場と使命を感じている。
 その表情は、決して恐れや戸惑いがないとは言えないが、大変凛々しかった。

 キールクラインは、自分が国にいない間、自分と同じく見えないモノと戦って来た彼女たちを誇らしく感じた。それと同時に寂しさを感じていた。
 自分だけがこっそり見ることの出来た宝物達。
 太陽のような赤い宝石。優しく甘える紫の宝石。秘密の花園は、閉園を告げているのだと。
 

go page top

inserted by FC2 system