探さないでください 2章

帰郷

   * 

 昼下がりの午後。いつもは静かな城の一角が何やら騒がしかった。それは小さな子供達の声のようだ。
「キール! クローディアおねえちゃん! 私も一緒に連れてって!」
 少女の高い声が王城に響く。少女の名は、ラヴィリア・フォン・ファイファー。ファイファー家の長女だ。彼女に近しい者は彼女を『ラヴィ』と呼ぶ。そのラヴィリアは城の壁をよじ登り、窓の枠に足をかけ淵に立つと外へ身を乗り出す。吹き上げる風が腰まである藤色の髪を舞い上げる。
 今、ラヴィリアがいる場所は王城の三階だ。窓から地面まで十メートル以上はある。しかしその高さに恐れることなくアメジスト色の瞳が地上をまっすぐ見下ろしていた。
「ラヴィ、それは駄目だよ!」
 彼女の声に答えたのはキールクライン・フォン・ロイト。ロイト家の長子だ。彼に近しい者は彼を『キール』と呼ぶ。彼は丁度ラヴィリアの眼下の中庭にいた。
 キールクラインの髪は、オリーブ色で独特の癖毛で四方に跳ねている。瞳の色は濃いグリーンだ。
「そうよ、危ないから窓から降りなさい」
 ラヴィリアに命令をしたのは、キールクラインの横に立っているルビー色の髪を持った少女だった。彼女は、ティシャナ国第一王位継承者クローディア・ルン・ティシャナ王女。クローディアは、ラヴィリアとキールより三つ年上で、二人の姉のような存在であった。横に立つキールクラインより頭一つ分背が高い。二人は王族と貴族なのだが、今日の二人は身分に不釣り合いな質素な服に身を包んでいる。クローディアはこれより城外へお忍びの視察に出る。キールクラインはその視察に同行する事になっていた。
「なんで駄目なの!」
 ラヴィリアは、窓枠から身を乗り出すのはやめたが、今度は窓枠に腰を下ろして、中庭の二人に叫び続ける。
「ずるい! ずるい!」
「そんな事言われても……だってラヴィは、男の人に会っちゃいけない決まりがあるじゃないか!」
「そうよ、外には男の人がたくさんいるのよ」
 キールクラインとクローディアは、窓辺のラヴィリアに答えた。
「……そうだけど」
 ラヴィリアは先ほどまで声を張り上げていた口を今度は尖らせ顔をうつむく。
 ラヴィリアは巫女王になる修業のため、決められた男子以外と接見することを禁止されている。外出する際も馬車から外を覗くことさえ許されない。遊び盛りの子供には大変酷なことだった。
 ラヴィリアは、自分の立場を子供ながらも十分理解していた。だがたまにこうして自分を抑えられず癇癪を起こす。まだまだ子供なのだ。
「いいなぁ。キールとクローディアお姉ちゃんは! わ、私はいつも……お城の中でお留守番……」
 ラヴィリアは自分の膝を抱いて、スカートの裾に顔をうずめる。涙がこぼれ落ちそうなのを必死に我慢しているのか声が震える。
「……ごめんね、ラヴィ」
 クローディアは、こういう時のラヴィリアをどう扱っていいのか分からなかった。クローディアはラヴィリアに謝罪の言葉を述べるしかなかった。
「ねぇ、ラヴィ!」
 キールは王城の窓辺にいるラヴィリアに大きな声で語りかける。
「なーに」
 ラヴィリアは、スカートから顔を上げるとキールクラインを見下ろした。
「今日はお土産を買ってくるから、それを楽しみに待っていてよ、ねっ、お願いだよ!」
 キールクラインはラヴィリアにそう懇願した。
「本当に?」
「本当だよ!」
「じゃあ、指切りして約束してよ」
 ラヴィリアは再び窓枠の上に立つとそう切り返した。
「いいよ!」
 キールクラインはそう告げると魔術呪文を暗唱した。
 暗唱が終わるとキールクラインの足は地面からゆっくりと浮き上がり、次の瞬間目にも止まらぬ速さでラヴィリアのいる窓辺まで飛翔していた。さすが賢者の家系の子供だけある。大人でも習得が難しいとされている飛翔魔術を易々と行使して見せた。
 キールクラインはラヴィリアの横に音もなく降り立つと、ラヴィリアに右手の小指を差し出した。ラヴィリアもそれに応じ小指を絡める。二人の可愛い声が中庭にこだまする。

『指切りげんまん、嘘付いたら、針千本飲ます』

 中庭に残されたクローディアは、そんな二人の事を微笑ましく見守っていた。ラヴィリアの事はキールクラインには敵わない。またラヴィリアも同じ、誰よりもキールクラインの事を知っている。
 
『指きった』

 二人は言い終わると、指を勢いよく離した。
「じゃあラヴィ、行ってくるね!」
「いってらっしゃい」
 ラヴィリアの表情には、笑顔までとはいかないが涙はもう浮かんでいなかった。
 キールクラインは、窓枠を蹴ると地上に向け勢いよく飛び出した。
 そして地上に降り立ち、クローディアに連れられ王城を出て行く。ラヴィリアはそんな二人の後ろ姿を見えなくなるまで見つめ続けた。
「いってらっしゃい」
 ラヴィリアは小さく手を振ると窓から廊下の床に降りた。そして、誰もいないその場所で一人呟く。
「ラヴィリアは二人のご無事をお祈りしています……」

   * * *

 城外のお忍びから戻ったキールクラインとクローディアは、一目散にラヴィリアが待つ部屋に向かった。
「ラヴィただいま!」
「ただいま」
「あ、キール、お姉ちゃんお帰りなさい」
 部屋に入るとラヴィリアは一人静かに椅子に座り法術の教本を読んでいた。キールクラインはラヴィリアとは数時間しか離れていなかったはずなのに、ずいぶん長いこと離れていたような気がした。それほど二人はいつも一緒なのだ。寝る時も食事も遊ぶのも、勉強の分野以外は全てが一緒で違いがない。
「キール、貴方がやりなさい」
 クローディアはキールクラインの横に立つと、彼の脇腹を肘で突っついた。
「えっと、できるかな」
「貴方が選んだのでしょ、分からなかったら教えてあげるわよ」
 キールクラインとクローディアはラヴィリアを仲間外れにして何やら内緒話をしている。ラヴィリアはそれがとても気になったようで、本をテーブルに置き立ち上がると、二人の傍に歩み寄った。
「もう、二人ともコソコソ何しているの?」
「な、なんでもないよ!」
 何でもないと言うには、キールクラインの行動はラヴィリアの目にとても怪しく見えただろう。いたずらを考えているときは、態度から悟られないよう飄々とすることを心がけている。今はそれとは違うが何かを隠しているということを悟られている気がする。
「嘘ね」
 ラヴィリアにはキールクラインにきっぱりと伝える。
「ラヴィには全部お見通しね」
 クローディアはクツクツと忍び笑いをしていた。
「お姉ちゃんはちょっと黙っていてよ」
「はいはい」
 キールクラインはそんな姉を一回睨みつけてから、咳払いを一つした。そして……
「ラヴィ、ちょっとの間だけ目をつぶっていてくれる?」
 そう願い出る。
「えっ、なんで?」
「いいからお願い!」
 ラヴィリアは不審に思ったようだが、キールクラインに言われるがまま両目を閉じた。
「これでいいの?」
 キールクラインは、ラヴィリアがきちんと目をつぶっているか確認するため、ラヴィリア顔の前で手を振った。大丈夫のようだ。
 それからラヴィリアの背後に立つと、ラヴィリアの首筋にそっと手を回した。
「くすぐったいよ! 何やっているの?」
 ラヴィリアは突然首筋を触られたので、首に鳥肌が立った。
「まだ目を開けちゃ駄目だよ。ちょっと我慢してね」
「う、うん……」
 ラヴィリアは、口をへの字にしてくすぐったいのを我慢している。
 キールクラインはあまりラヴィリアの肌に触らないようにして、髪を首元から退かすと懐にしまっていた物を取り出し、ラヴィリアの首にかけた。
「えっ、これをこうして……お姉ちゃん、これでいいのか?」
 キールクラインはクローディアに助けを求めた。クローディアは傍に寄ると、ラヴィリアの首筋を確認する。
「ええ大丈夫。上手く出来ているわ」
 キールクラインはクローディアの言葉を受けラヴィリアの前に移動する。
「よし! ラヴィ目を開けていいよ」
「もういいの? 開けるからね!」
 ラヴィリアは、恐る恐る目を開けた。最初に目に飛び込んで来たのは、キールクラインの得意げに歯を見せて笑う姿とその後ろで同じく優しく微笑んでいるクローディアの姿だった。
「約束のお土産だよ!」
「お土産?」
 キールクラインはラヴィリアの胸元を指刺した。ラヴィリアは自分の胸元に目をやるとキラキラ輝く十字型があるのに気が付いた。
「わあ、綺麗!」
 それは水晶で出来た十字型のタリスマンだった。ラヴィリアはそれを指先で摘まんで掌に置いた。
「キールが選んだのよね」
「なかなかセンスいいだろう?」
 キールクラインは得意げに腕組みをして体をのけぞらせる。
ラヴィリアとの約束を守り土産を買ってきたのだ。
「キール、お姉ちゃん大好き!」
 ラヴィリアは二人に飛びついた。体全体を使って感謝の気持ちを伝えた。しかし飛び掛かられた方はたまったものじゃない。キールクラインとクローディアはラヴィリアをなんとか抱き止める。
「もうラヴィ危ないよ」
「少しお転婆がすぎるわ」
「お姉ちゃんほどじゃないもん」
「言ったわねぇ」
 ラヴィリアは立ち上がるとクローディアから逃げる。
「こら待ちなさい」
「いやだも〜ん」
 このタリスマンはお忍びの最中、露店で売られていたのを偶然見つけたものだった。キールクラインは一目で気に入り、これをラヴィリアのお土産にしようと思った。クローディアは女の子のお土産ならもっと可愛い物が良いのではと言ったが、彼のインスピレーションがこれだと言うのだ。なぜこれが良いのかをクローディアに力説してみせた。案の定ラヴィリアは、そのタリスマンを見て本当に嬉しそうに微笑んだ。大当たりだ。
「キールありがとう。ずっと大切にするね」
「どういたしまして」
 室内ではクローディアとラヴィリア、姉と妹が笑い声を上げながら追いかけっこを繰り広げている。
 なんて幸せな光景だろうか。
 キールクラインは、この空間を切り取って自分の中にしまっておきたいと思った。

   * * *

「ふふふ〜〜ん♪」
 キールクラインは馬車の荷台に寝っ転がって、鼻歌を歌っていた。
 今日は久しぶりに幼い頃の夢を見て気分が良かった。小さな箱庭のような幼き日の思い出。
――あんな夢を見るのも……あれのせいかな。
 キールクラインは、起き上がると遠くに視線を合わせた。キールクラインの目には、空と地を分断するかのように、横に伸びる壁がしっかり見えた。そこに昇ったばかりの太陽が顔を出す。太陽の先にあるのがティシャナ国聖王都の巨大な城壁だった。
「久しぶりに戻って来たな」
 懐かしき我が故郷。
 キールクラインは賢者の修行のため長く故郷を空けていた。通常の賢者の修行ならば国内だけでも事足りるが、彼が目指さなければいけないのは、国一と謳われる賢者の王の器だ。
「おじちゃん、俺ここで降りるわ」
 キールクラインは、馬車の持ち主に声をかけた。
「えっ、ティシャナに行かれるのでしょ賢者様」
「まあね」
「では、城門の中までお乗せしますよ」
「いや、ここで十分だよ。……それに城門を潜る前にちょっと野暮用があってね、それを済ませて来るよ」
 キールクラインは自分の手持ちの荷物をまとめ出した。
「そうですか」
「道中乗せてくれてありがとう。とっても助かったよ」
 キールクラインは、馬車の持ち主に丁寧に礼を言い、ひょこっと頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ賢者様に乗って頂いたおかげで、野盗に襲われる心配もなく安心して旅が出来ましたよ。お礼を申し上げたいのはこちらの方ですぜ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。じゃあ、おじちゃんも達者でね」
 キールクラインは、そう言うと魔術を暗唱した。
「ええ、賢者様も」
 キールクラインは、馬車の主人に手を振りながら空中に舞い上がった。そして空高くに留まると、しばらくの間馬車が城門向かって進み、小さくなってゆくのを見送った。
 上空は地上とは違って風が強かった。キールクラインの独特の癖のあるオリーブ色の髪が風になびく。
「このまま馬車に乗って城門を潜ったら、俺が帰って来たことが国中に分かっちゃうからね、慎重にいかないと」
 キールクラインはそう言い、肩にかけていた荷物の中からなにやら一枚の布を取り出した。それは濃いグリーンのビロード生地のマントだった。
 キールクラインはそれを風に逆らいながら身に纏う。このマントは世間では『賢者のマント』とも呼ばれている。賢者の資格を持つ者に必ず与えられ、その身分を証明するものであった。
 マントは風を受けて、まるで旗のようになびいている。
「さーてと、巫女の修道院は、どっちの方角だっけ……」
 キールクラインは、さらに空高く昇るとティシャナの聖王都を見下ろした。
「あそこだな」
 キールクラインは、場所の狙いを定めると今度は上空から急降下する。重力と飛翔魔術が合わさり、まるで猛禽類が獲物を捕らえるようなスピードで空を駆ける。
 ティシャナ最大の修道院は、王都内にあるが中心部から少し外れた位置にある。建物は多くの木々の中に収まるようにして建っている。キールクラインは敷地内に音もなく降り立つ。
「こんにちは……かな? 御免くださいと言うのもおかしいし……」
 一人ブツブツと独り言を言いながら、修道院の入り口のアーチを潜った。旅に出てからどうも独り言が多くなって困る。院の敷地内に踏み入ると、上空から見た以上に中は草木が鬱蒼としており、まるでここは小さな森のようだ。アーチを潜ってからかなりの距離を歩いたが、誰にも出会う気配がない。
「……これは参ったな、誰か係の人とかいないのか。すみません! 誰かいませんか!」
 キールクラインは訪問を知らせるべく声を上げる。
「何者だ!」
 その声は背後から唐突に投げかけられた。慌てて振り向くとそこには敷地の警備をしているらしき女性達が立っていた。彼女らは女性であるが、体格もよく男性と同じような装備を身に着け、キールクラインに向かってその装備を構えていた。
「待ってください! 怪しい者ではありません!」
 キールクラインは両手を上げて、こちらは抵抗しない旨を女性達に示す。
「……賢者か」
 女性達はキールクラインのマントを見て、怪しい者ではないと分かったのか、手に持っていた装備を下ろしてくれた。キールクラインはそれを見て自分の手を下げる。
「賢者がこの地に何用だ! ここは男子禁制の地と心得ていないのか!」
「ええ、それは承知しています。実は面会したい人物がいまして……」
「面会希望か……面会用の入り口は別だぞ」
「すいません、不慣れなもので」
 キールクラインは警備の女性達に謝罪した。
「皆さんのお手を煩わせてしまいました。実はこちらに居るか分からない子なので、どこに行けば確認出来るでしょうか?」
「誰に用だ」
「えっ?」
 警備の女性の一人が、懐から何やら書類を取り出した。
「調べてあげるよ」
 彼女はこの修道院に滞在している巫女のリストか何かを持っているようだ。これは助かった。
「ありがとうございます! 実は俺、ラヴィリアという巫女に会いに来たんです!」
 キールクラインが会おうとしているラヴィリアというのは、幼き日兄妹のように育てられた『ラヴィ』の事だ。ラヴィリアは自分と同じく修行をするため、王城を出て修道院に身を置いているはずだ。はずだ、などと不確か言葉を使うには理由がある。彼女とはティシャナを旅立ってから一度も連絡を取れずにいた。そのため正確な所在を知らない。しかし全く手がかりがないわけではなかった。旅立つ前『私は国で一番大きな修道院に行くの』とラヴィリアから聞かされていた。そしてここがその国で一番大きな修道院だ。
「ラヴィリアという名の巫女か……」
 女性は数秒リストに目を落とす。そして再びキールクラインの方に向いた。
「残念だが、ラヴィリアという名の巫女はここにはいないぞ」
「えっ、そうですか……参ったな」
「他の修道院の間違いではないか?」
 キールクラインはこの修道院だと思っていたが、どうやら間違えたのだろうか。国内でこの規模の修道院は他にはないはずだ。もしかしたらラヴィリアの勘違いかもしれない。しかしそうなると、本当に当てがなくなってしまう。
――仕方がない。
「あの、どなたかラヴィリア・フォン・ファイファーの所在をご存じの方はいませんか?」
 リストに名前がなくても、ラヴィリアはファイファー家の息女だ。誰か所在を知っているかもしれない。ラヴィリアのフルネームを出すのは極力避けたいと思っていた。しかしこの場は情報を仕入れるために致し方ない。しかしその判断は失敗だったことを思い知る。
 キールクラインの周りにいた警備の女性達が全員キールクラインを凝視し始めた。
「……まさか賢者よ。貴様は巫女姫様に会いに来たというのか?」
 どうやらラヴィは『巫女姫』と呼ばれているようだ。確かに巫女王になる前の身だから『姫』という表現は正しいのかもしれないとキールクラインはぼんやり思った。
「ええ」
 キールクラインは、至極当然のようにうなずいてみせた。
「なんだと! 恐れ多くも巫女姫様に面会を願い出ようとしていたのか!」
「……あっ」
――これは不味い。
 やはりラヴィのフルネームを出したのが間違いだったか。キールクラインは、場の空気が不穏になったので、この場は一度引いて出直してこようと思った。しかし、時すでに遅く……
「巫女姫様に面会など怪しい! その身柄取り押さえる!」
「えっ、いきなりそう来るの?」
 キールクラインは一瞬の判断を誤り、周囲を女性達に取り囲まれてしまった。さすが訓練されている女性兵と褒めたくなるような動きだ。
 なんてことを考えていていい状況ではない。ティシャナに戻っていきなり、捕縛されて牢にでも入ったら……
――絶対、各地から怒られる!
 特にロイト家の父と賢王、そして某王女辺りからこっ酷く……
 キールクラインは自分の未来の姿を想像して青ざめた。ここは何としても逃げなければいけない。
「す、すいません、ちょっとだけ俺の話を聞いてくれませんか!」
「問答無用!」
 訴えかけてみたが、無駄であった。
 キールクラインは、とりあえずこの場から逃げるため、来たときと同じように飛翔魔術を発動させ女性達の包囲から逃げることにした。
 素直に拘束されると見せかけて、数メートル上空に飛んだ。しかし周囲の木々に邪魔をされ、急上昇できない。また相手も対賢者戦を熟知しているらしく、こちらの弱点を突いてくる。
「相手は賢者だ! 魔術に注意しろ! 法術が使える者を呼べ!」
 警備の女性達も本気らしい。巫女が使う法術を使われたらこちらも無事に逃げるのは難しい。
「そっちに行かせるな!」
 キールクラインは飛翔しながら、勝手の分からぬ修道院の庭を逃げる。そしてなんとか女性兵達を撒いたと思ったところで広い空間に飛び出た。どうやらここは修道院の中庭らしい。
 城の中庭のように、人の手によって手入れされた美しい庭園がそこにはあった。
 しかし、今はその美しい風景には、不釣り合いなモノが見える。気がつくと修道院の中庭には、武器を持った女性警備兵と手に杖を持った巫女達が勢ぞろいでキールクラインを出迎えてくれているではないか。
「あーあ、どうしよう……」
 どうやら、キールクラインは誘導にまんまとはまってしまったようだ。

   * * *

 ラヴィリアは自室のベッドに夜着姿のまま寝そべっていた。
 別にどこが悪いわけではないのだが、今日は調子が悪いと言って巫女の修業をずる休みしてしまった。
 ラヴィリアにとっていま行っている巫女の修業は、とても単調でつまらないものだった。どちらかと言えば、棒術など体を鍛える訓練の方が気に入っていた。それは戦うためではなく体力作りのための訓練だ。神託を降ろす巫女には健康な身体と、長丁場にも耐えうる体力が必要とされた。
 窓の外は少し風が強いようだがとても良い天気だ。時折窓がカタカタと揺れる。ガラス越しに差し込む陽射しは、室内に丁度良い陽だまりを作ってくれる。ラヴィリアは外を駆け回る自分を想像しながら、ベッドの上でまどろんでいた。その時だった……
 部屋に女性達の騒ぐ声が響いた。
「なっ、何?」
 眠りに落ちかけていたラヴィリアは、突然の騒ぎ声に起こされた。自分の心臓がドキドキと脈打っているのがわかる。寝ぼけ眼で周囲を見回した。しかし部屋はいつもの通りだ。どうやらその騒ぎ声は、窓の外の中庭から聞こえて来るようだ。
――外から?
 ラヴィリアはベッドから起き上がると、床の上に降り立った。そして床に着くほど長く伸びた自分の髪を掴み肩に掛けると室内を進む。この部屋には中庭側にバルコニーがある。そこから中庭の様子を見ようと思ったのだ。
 ラヴィリアはこの修道院の最高責任者だった。事件が起きた場合赴かなくてはならない。眠い目を擦りながら窓に手を掛け、少し乱暴に開け放った。
「もう、うるさいなぁ」
 バルコニーを裸足で歩くと、中庭を見下ろした。庭の中央に警備の女性や巫女達が武器を手に集結している、騒ぎの原因はこれのようだ。どうやら誰かを包囲している。人垣の間から最初にグリーンのマントが目に入った。距離があったが骨格から男性なのがわかる。侵入者は男性の賢者のようだ。
――賢者?
 ラヴィリアはその侵入者に違和感を覚えた。賢者ならばここがどういう場所か知っているはすだ。誤って迷い込んだのだろうか。もしわざとならばこれは何かあると思った。
 ラヴィリアは手すりから身を乗り出して目を凝らした。
 包囲する人々を巧みに避けている人は、賢者のマントを身に着けたオリーブ色の髪をした青年だった。恐らくラヴィリアと同年代ぐらいだろう。
「……えっ」
 ラヴィリアは生まれてこのかた、両手で数えられるぐらいの男性にしか会ったことがない。修行の一貫として男性との接見が制限されていた。許可が下りているのはほとんどが王族と親族だ。遠目で見ることもあるが、この修道院に入ってからは、それも皆無に等しかった。
 ラヴィリアは彼の姿を目にした途端、胸がざわついた。眼下の賢者に見覚えがあったからだ。この感情をなんと言ったらいいのだろうか。そうだ『懐かしい』だ。
 ラヴィリアは自分の胸元に手を置いた。そこには銀の鎖に通された十字型のタリスマンがあった。
「キールなの?」
 ラヴィリアは幼い日、兄妹のように育ったキールクラインの愛称を口ずさんだ。
「……私が、間違えるはずがないわ、あれはキールよ! 絶対キールよ!」
 ラヴィリアは自分に言い聞かせるように声を出す。気づくと自分は手が震えているではないか。タリスマンを両手で握りしめ乱れる心を懸命に鎮めようとするが、上手くいかない。不測の事態に対応出来るよう日々精神の鍛錬を積んできたというのに、なんと不甲斐ないのだろうか。いや今ここで自分が捨て鉢になってはいけない。ラヴィリアは息を一つ大きく吸って吐きだすと、呼吸を整えた。
――私はどうすれば……そうだ!
 ラヴィリアはようやく自分が取るべき行動を見定めた。まずキールクラインの元に向かおう。そして取り囲む女性達の誤解を解かなければ。今それが出来るのは自分しかいない。しかしその考えは再び暗礁に乗り上げる。このバルコニーからは中庭に降りる階段はない。部屋から中庭に出るにはとても遠回りで時間がかかる。
「もう!」
 警備の事情とはいえ、このベランダが憎らしい。
 そうこうしているうちにキールクラインが捕まってしまう。頭の固い彼女たちの事だ、キールクラインが拘束されたら容易に面会をさせてくれるわけがない。解決策が思いつかない。
――どうしたら。
 ラヴィリアは、中庭のキールクラインをじっと見つめた。この状況何か昔にもあったような気がする。あの時は王城にいてキールクラインの横にはクローディア王女がいた。幼い時分の行動を思い出す。それは妙齢な女性がするには少々恥ずかしい。しかし――
「これしかないか……」
 ラヴィリアは両手でバルコニーの手すりを掴み、体内を反らせるほど大量に大気を吸い込むと、吐き出すと同時に叫んだ。
 息が続く限り、力の限りキールクラインに気付いてほしいとその名を叫んだ。
「キーーーーーール!」
――風の精霊よ、どうか私の声を彼に届けておくれ。
 心の中で祈るのだった。

   * * *

 キールクラインは、誰かに名前を呼ばれたような気がしたので周りを見回した。しかし周囲の警備兵や巫女達の装備のぶつかる音が邪魔をして音が拾えない。
「気のせいかな?」
 しかし。
「キーール! キーール!」
 やはり自分の事を呼ぶ声がする。キールクラインは、声が聞こえて来る方角をみた。そこには修道院の建物がある。ティシャナ国内で自分の事を『キール』と呼ぶ人物は限られている。もしこの場所で自分のことを『キール』と呼ぶ人物がいるとしたら……その可能性は一つしかない。
「ラヴィリア? ラヴィなのか!」
「キール! ここよ!」
 キールはバルコニーに立つ人影に気が付いた。
「ラヴィ!」
 キールクラインは周囲の包囲を逃げながら、バルコニーに近づこうとした。しかしそれよりも早く、ラヴィリアらしき人影は、バルコニーの手すりの上に立ち、中庭に飛び降りようとしているではないか。
「まさか巫女姫様!」
「おやめください!」
 キールクラインを取り囲んでいた女性達も巫女姫らしき人物に気が付いたのか、悲鳴が上がる。
 しかしラヴィリアは、誰の制止の声も聞こえないかのように、バルコニーの手すりを両足で蹴って飛び降りた。
 甲高い女性達の悲鳴が中庭を支配する。現実を直視出来ず、目を伏せる者もいる。しかしラヴィリアは地面に激突することもなく、まるで階段を一段降りたかのようなフォームで中庭の地面に着地する。ラヴィリアの体の周囲には魔術の光の粒が無数に舞っている。それが彼女を静かに地面に下ろしたのだ。
「巫女姫様!」
 ラヴィリアは自分を心配する周囲の声や差し伸べられた手を払いのけ、中庭を走る。そして一直線にキールクラインの元へ走り、その勢いのまま腕の中に飛び込んだ。
「キールおかえりなさい!」
「ただいま、ラヴィ!」
 キールクラインはよろめきながらもラヴィリアの身体を抱き止めた。そして、その体を抱き上げ自分を軸にしてグルグル回った。
「相変わらず無茶するなぁ」
「キールの魔術があるから大丈夫よ」
 ラヴィリアの身体にまとわれた光の粒が静かに散ってゆく。
 そう、ラヴィリアを無事に地面に下ろした光はキールクラインが放った魔術だ。ラヴィリアはキールクラインの腕を信頼し地上に飛び降りたのだ。
――本当になんて無茶をしてくれる。
 キールクラインは、ラヴィリアに信頼を置かれたのは嬉しかったが、肝が冷えた。
「修業の旅は終わったの?」
「まあね」
 キールは両手が塞がっているので、顎を少し持ち上げ得意げなポーズをラヴィリアにしてみせる。
「おめでとう!」
 ラヴィリアは再びキールに抱きついた。今度はキールの首に力一杯しがみついた。
「良かった。俺これでやっとラヴィとの約束を守れた」
 ラヴィリアはキールから少し離れると顔を上げる。
「覚えていてくれたんだ?」
「もちろんだよ」
 『約束』とは。キールクラインはラヴィリアと一つ約束をした。ラヴィリアは旅立ちの朝、涙を必死に堪えて笑顔でキールクラインを送り出してくれた。その姿を見て自然と口に出た言葉がある。それが『帰ってきたら、一番最初にラヴィに会いに行くから』だった。
「ありがとう」
 ラヴィリアはお礼の言葉を紡ぐと、キールの両頬に手を置いて満面の笑みを落とす。
――ああ、良かった。やっと約束が守れた。
 キールはラヴィリアの表情を見て長年抱えていた心のつかえが取れた気がした。あんな顔で別れたままでは寝覚めが悪い。
 ラヴィリアは目を逸らさずキールを見つめる。
「キール、かっこよくなったね」
 思いもしない感想だった。
「そう?」
「見違えた、背も私より高いでしょ?」
 たしかに顔は子供の頃と違い余分な肉が削ぎ落ちたと思うし、体も鍛えられラヴィリアの身体を軽々持ちあげられるほどになっている。四年前二人の身長はそんなに変わらなかった。今はどれくらい差がついたのだろうか。
「それはどうもありがとう。ラヴィこそ少しは女らしく……そんなことないか?」
 ラヴィリアは、キールクラインの頬に優しく置いていた指先に力を入れると、今度はむんぎゅと摘まんで捻った。
「何よそれ、失礼ね!」
「いたたたいたい、冗談だよ。綺麗になってどうしようかと思いました」
 キールは、怒れるラヴィリアを地面に下ろしながら感想を訂正する。
 お互いの背は頭一つ違う。ラヴィリアはキールの顔を覗き込んで、当たり前ですと言いたげに見上げてくる。
「初めからそう言いなさいよ!」
 二人はお互いの顔を見合わせて笑う。
 一方キールを取り囲んでいた警備の女性と巫女達は、自分たちの巫女姫が突然バルコニーから飛び降りて、見知らぬ賢者に抱きつき楽しそうに談笑しているのを呆然と見ていた。しかし数名が我に返るとラヴィリアに駆け寄った。
「巫女姫様! お怪我はありませんか!」
「えっ、ええ。見ての通り無事ですけど」
 ラヴィリアは回りにいたギャラリーのことなど、すっかり忘れていたようだ。
「巫女姫様、どうかこのような輩からお離れください!」
「巫女姫様に触れるとは、なんたることを!」
「その罪極刑に値します」
 職務を思い出した警備兵や巫女は、次々にラヴィリアに懇願した。
 そして彼女たちは装備を構え直し、再びキールクラインを包囲しようとしているではないか。
「おやめなさい!」
 ラヴィリアは、彼女達に向かって一喝して退かした。そしてラヴィリアは再びキールの方を見た。いったい何がどうなってこんな事態になったのだと、目が語っている。
「ちょっと食い違いがあって……」
 キールクラインは、そういうとラヴィリアに事の顛末を説明した。
 そうであった。ここにいるラヴィリア以外キールクラインの素性を知る者はいない。このままではキールクラインは修道院侵入の罪と、ラヴィリアの掟を破った罪で投獄されてしまう。
 ラヴィリアは話を聞き終わると、何の前触れもなくキールクラインの足元に片膝をついて跪いた。
 キールクラインはラヴィリアの行動に身体が対応出来ず、動きを止める。
「キールクライン様、この不始末は修道院の主である私めの責任でございます。数々の御無礼をお許しください」
 ラヴィリアは、今までとは別人のような喋り方をし始めた。
「巫女姫様!」
 警備の女性と巫女達は、巫女姫の突然の行動に驚愕する。それもそうだ。キールクラインの今の外見はお世辞にも綺麗とは言えず小汚く見窄らしい、おまけに若輩。いくら賢者とはいえそんな相手に修道院の最高責任者である巫女姫が膝を折るなど一大事である。
「皆さん、こちらはロイト家のご子息キールクライン・フォン・ロイト様です。キールクライン様は、次期賢王の地位を得るべく修業の旅よりご帰還なさいました。何をしているのですか、お控えなさい!」
 ラヴィリアは跪いたまま、女性達に向かって高々に声を張り上げた。ラヴィリアの言葉を合図にしたかのように、その場にいた全員が一斉に跪いた。
「も、申し訳ございません」
「ご無礼をお許しください!」
 警備の女性と巫女達は、自分達の仕出かした失態に青くなっていた。キールクラインはというとこの事態に順応出来ずにいた。鳩が豆鉄砲食らったとは、まさにこのような顔を言うのだろう。光景を茫然と見ていた。
「えっ、えっと……」
 ずっと旅の空の下の暮らしだったので、こういう場面に身を置くのは久しぶりだった。そのため、口がスムーズに動かない。ラヴィリアはそんなキールクラインの状態に気がついたのか、そっとマントを引っ張った。どうやら話の流れを合わせてくれという合図だろう。
 キールクラインは、逃げ出したい気分だったが、ラヴィリアの手前そういう訳にはいかない。そして自分の中で、精一杯着飾った声音を絞り出す。
「ラヴィリア殿、どうか頭を上げてください。この度の事は、私自らが招いたこと、どうかお気になさらないでください」
 そう言うとキールクラインは、自分の前に跪くラヴィリアの手を取って立ち上がらせた。
「私達は幼き日、兄妹のように育てられた仲ではないですか、どうかそのようなお気遣いは無用に願います」
「ありがとうございます。皆さん、キールクライン様のお許しが出ました。今後こういうことがないように! さあ、持ち場に戻りなさい」
「はい!」
 その場にいた女性達はラヴィリアの言葉に従い、立ち上がると二人に深々と挨拶をしてから各々の持ち場へと帰って行った。しばらくピリッと張りつめた空気の余韻が中庭を覆う。その雰囲気に堪り兼ねて、最初に声を発したのはキールクラインだった。
「はぁっ、こういう言い回し久しぶりだよ。声、震えていなかった?」
 キールクラインはラヴィリアの手を離し、自分の両腕を摩りだした。少しの間の出来事だったが、両手に汗をかくほど緊張していた。
「上手く出来たと思うけど、これから増えるから少しは慣れておかないとね」
 ラヴィリアはこれしきの事で根を上げているキールクラインに先輩風を吹かせている。
「……だよね。努力します」
「ラヴィ様! この騒ぎは何事ですか!」
 そんな時であった。二人の背後からラヴィリアの名を呼ぶ。年配の女性らしき声が聞こえてきた。見ると中年の女性が修道院の建物から出て、こちらに歩み寄ってきているところだった。
「マーシャ、あのね!」
 ラヴィリアはその女性の姿を見るなり『マーシャ』と呼んで彼女の元へ歩み寄った。キールクラインもラヴィリアの後ろに続く。
 マーシャは二人の元までゆっくり歩いてくると、ラヴィリアを見た後キールクラインの方をじっと見つめた。
「ラヴィ様、まさか……こ、こちらの方は」
「そうマーシャが今思っていることで正解よ」
 ラヴィリアはマーシャの背後に回り込み、マーシャをキールクラインの前に押し出した。
「キール様……キール坊ちゃまなのですか?」
「うん、マーシャ。ただいま帰りました」
 キールクラインは自分より小柄な女性を見下ろして、にっこりと微笑んだ。マーシャは返事を聞くと大きく目を見開いた。
「よくご無事で……」
 そう言うと両手で顔を覆う。どうやら感極まって涙を流しているようだ。キールクラインはそんなマーシャの肩を抱きしめた。
 このマーシャという女性は、キールクラインとラヴィリアの乳母であった。貴族の子息は必ず乳母が付いた。その女性が母親代わりとなって身の回りの世話や礼儀作法を教える。言わばマーシャはキールクラインにとって育ての母だ。
 昔のマーシャは、優しいが怒ると怖かった。よくいたずらを見つかりラヴィリアと二人で怒られたものだ。彼女は幼き日のキールクラインにとって絶対の存在だった。
 しかし今のマーシャは、自分の腕の中にすっぽり納まってしまうほど小さく、守らなければという思いさえ湧き起こってくる。それは自分が成長したからなのか、それともマーシャが年を取ったからなのか、キールクラインは時間の経過を感じずにはいられなかった。
「キール様、こんなに立派になられてマーシャは、嬉しゅうございます」
「マーシャは、ラヴィと一緒に修道院に来ていたんだね。ラヴィの次に会えて嬉しいよ」
「……まさかキール様、ラヴィ様とのお約束通り最初にこちらへ?」
「うん、そうだよ。さっき国境を越えたばかり」
 どうやらマーシャは、ラヴィリアとキールクラインの約束を知っていたらしい。
「もう、お約束とはえ、王様やお父上様の元より先に来られるなんて……」
「俺は約束を守る男だからね。しかしこの約束、ちょっと難易度高くて……」
 キールクラインはラヴィリアの方を見ると苦笑いをした。
「ではこの騒ぎは、キール様のせいなのですね!」
 先ほどまで泣き顔だったマーシャは、眉をついと上げてキールクラインを睨みつけている。
「俺が至らぬばかりに……」
「昔から言っていますが、ご自分の立場をちゃんと弁えてください!」
 キールクラインは久しぶりにマーシャに怒鳴られた。
「ごめんなさい、お騒がせしました!」
 しかし、それもなぜか心地良い子守唄のように感じられた。キールクラインは、怒られながらもつい顔が笑ってしまう。
「ラヴィ様もラヴィ様です!」
「えっ、私も?」
 ラヴィリアは突然自分の名前を呼ばれ驚く。怒られるのはキールクラインであって、まさか自分にお説教の矛先を向けられるとは思いもしていなかった。
「その格好はなんですか!」
 ラヴィリアはマーシャに言われ自分の体に視線を落とした。
「あっ」
 すっかり忘れていた。ラヴィリアは夜着姿のまま部屋を飛び出していた。
「今すぐお着替えください。キール様とお話になるのはそれからです!」
「は、はい!」
 ラヴィリアは、マーシャの言付けにとても良い返事をした。
「さっ、キール様は私と一緒にお越しください」
「マーシャ、キールは私の部屋に連れてきてよね! 絶対よ!」
「承知しておりますよ」
 ラヴィリアは、自分の夜着の裾と自分の長い髪を持ち上げると、建物に向かって小走りに向かう。
 ラヴィリアは、途中一度二人を振り返ると修道院の建物中に姿を消した。
「幾つになってもお転婆で困らされますわ」
「いいじゃない。ラヴィらしくて」
「キール様!」
 マーシャの、キールクラインを諌める声が上がる。
「怖い怖い」
 本当はもう全然怖くないのだが、今は昔を懐かしんで怒られたフリをする。

   * * *

 今日は本当に良い天気だ。空には雲が一つもない。朝から吹いていた風が空に浮かぶ雲を全て吹き飛ばしてしまったのだろうか。
 ラヴィリアは、修道院の衣裳部屋で部屋付きの侍女達に囲まれて身支度を整えている。表情一つ変えないで、巫女達に身を任せていた。服装は決して派手な装飾はない。だが修道院の主にふさわしい物だった。ローブは薄手で柔らかい絹地が幾重にも折り重ねられ作られている。そして長い髪はきちんと結い上げられている。彼女の髪は、これも掟により修行中は鋏を入れることが許されない。その頭上には王族たちも好んで使うプラチナで作られたサークレットと、揃いの髪止めが輝いている。その姿はまるで絵画の中から出て来たかと思うほど麗しかった。そこにはお転婆なラヴィリアの姿はなく、一人の聡明な巫女姫が佇んでいた。
 しかし、そのラヴィリアの装いに一つだけ不釣り合いな物が存在した。それは胸元に光る水晶のタリスマンだった。そのタリスマンは光の反射も鈍く、玩具のようなペンダントだった。周囲は服装に合う装飾を付けるよう懇願した。しかし、ラヴィリアはその願いに応じず水晶のタリスマンを付け続けている。巫女姫とも言われる人がどうしてこんな玩具に執着するのか理解できなかった。いや理解しようとしなかった。ラヴィリアはそんな相手には、何も語らず人形のように口を閉ざすのだ。
「巫女姫様、準備が整いました」
 ラヴィリアは侍女の声にはたと我に返った。そして。
「ありがとう、もう下がってください」
 ラヴィリアは、侍女達に優しく微笑むと下がるように言い渡す。
「失礼いたします」
 侍女達はラヴィリアに恭しく礼をしてから、静かに部屋から去っていった。ラヴィリアは侍女達が完全に去ったのを確認すると、衣装部屋から廊下へと続く扉に飛びついた。そして扉を開け放ち、廊下の外を見回し確認する。
――もう誰もいない。
「よし!」
 ラヴィリアは、今しがた綺麗に着せてもらったばかりのローブの裾を片手でまとめて持つと、廊下を勢いよく走り抜けた。聡明な巫女姫はどこかに飛んでいってしまった。

   * * *
 
 キールクラインはマーシャに案内された部屋で優雅にお茶を飲んでいた。広い部屋の中央に丸いテーブルセットがあり、マーシャが傍らでお茶をついでくれる。お茶菓子として皿の上にマフィンが並んでいる。
「お待たせ!」
 ラヴィリアがその部屋に飛び込んできたのは、キールクラインが二杯目のお茶を入れてもらっている時だった。
「やあラヴィ、着替え終わったみたいだね」
「うん!」
 キールクラインは、ラヴィリアの姿を見るとにこやかに微笑んだ。しかし一緒にいたマーシャの態度は正反対だった。
「ラヴィ様! またなんてはしたない!」
 マーシャは、ラヴィリアがローブの裾をたくし上げて持っているのを見逃さなかった。
「あっ!」
 ラヴィリアは慌ててローブの裾から手を離すと、両手の平で服装を整えた。
「あれほど何度も申しあげているではないですか! ご自分がいつまでも子供だと思っていてはいけません。世間ではラヴィ様の年齢でしたら……」
「ごめんなさい。今度から気を付けます」
 ラヴィリアは、マーシャに怒られ下を向いたまま頬を膨らませた。そして子供のように上目使いでマーシャに見上げた。
「そのお言葉は最近も聞きましたよ。ラヴィ様の『今度から』はいつになるのでしょうか?」
 ラヴィリアは自分の両耳を手の平で覆いたかった。しかしそんな事をしたらマーシャのお説教は、さらにパワーを増す。ここは素直に従うのが一番早い。
「ねぇ、マーシャ」
 しかし、キールクラインが二人のやり取りに割り込んできた。
「なんですかキール様。少しお待ちください」
「このマフィン、マーシャの手作りだよね。子供の頃よく作ってくれたよね? 懐かしいな」
 キールクラインはお茶菓子のマフィンを一つ手に取り、頬張っていた。
「あらキール様、覚えていてくださったのですか?」
「そりゃ、俺にとってマーシャの手料理は、お袋の味だからね」
「嬉しいことを言ってくださいます」
 機嫌を良くしたマーシャは、ラヴィリアのお説教から話が外れ、マフィンの話題に乗ってきた。キールクラインはにっこりと笑うと、マーシャに気づかれないようそっとラヴィリアに手でサインを送る。ラヴィリアはそれに気がついたらしく、静かに部屋の中を移動すると、キールクラインの向かいの席に腰を下ろす。
「この隠し味なんだっけ、昔聞いた覚えがあるんだけど……どうしても思い出せないんだよね」
「あら、これはですね」
 マーシャは、上機嫌でマフィンのレシピを説明している。どうやらマーシャの誘導に成功したようだ。キールクラインが帰ってきたばかりという事も成功の要因だろう。
 ラヴィリアにとってマーシャは、この修道院の中で対等に話が出来る数少ない存在だ。そのため、つい自分を見せて彼女を怒らせてしまう。マーシャもラヴィリアが自分に甘え慕ってくれるのが嬉しい反面、立場上ラヴィリアを厳しく諌める。それはマーシャの精一杯の愛なのは理解している。しかし、もう年端もいかない子供ではないのだから、お説教は勘弁してほしいのが本音だ。
「帰るときに幾つか包んでよ」
「分かりました。でも歩きながら食べてはいけませんよ」
「もう嫌だなぁ。俺だっていつまでも子供じゃないんだよ」
「そうでしたね、ラヴィ様がいつまでも子供なので、ついキール様にも同じようなことを申し上げてしまいました」
「ラヴィはこのままが一番いいんだよ」
「ですが……」
 ラヴィリアは何事もなかったようなすまし顔で、席に座っている。
「おほん、マーシャ、今度は私がキールと話をする番よ」
 ラヴィリアは、おもむろに立ち上がるとマーシャが手に持っていたお茶のポットを取り上げ、テーブルの上に置く。
「あとは私がやりますから。ねっ」
「わかりました」
「マーシャ、あとで寄るからね」
 キールクラインは皿の上マフィンを指差した。
「ええ、包んでおきますよ」
 マーシャは、キールクラインにお辞儀をすると部屋から退出した。
「……上手くかわしただろう」
 キールクラインは、両手を広げ首少し傾けてみせた。
「さすが!」
「マーシャのお説教は昔から長いからね」
「よくいたずらが見つかって二人で怒られたよね」
「そうそう、主犯のクローディア姉ちゃんは逃げた後でさ。怒られるのは俺達二人だけなんだよな、懐かしいな」
 実行犯のクローディア、作戦担当のキールクライン、見張り役のラヴィリア。それが子供の頃、いたずらをする時のフォーメーションだった。しかし実行犯の姉は、どうやっているのかお説教を逃れていた。
 ラヴィリアは、キールクラインのいるテーブルに歩み寄ると、テーブルの上に並んでいるティーセットとお菓子をお盆の上に乗せて持ち上げた。
「私の部屋に案内するわ」
「……やっぱり、どうもこの部屋はラヴィらしくないと思ったんだよ」
 キールクラインが案内された部屋は、調度品が綺麗に整われており、いかにも来客用の部屋という装いだった。
 ラヴィリアは、お盆を持ったまま部屋の奥へ歩いてゆくと、一つの扉の前で止まった。
「キール、ここを開けて」
 お盆で両手が塞がっているラヴィリアは、キールクラインに扉を開けるよう命令する。
「はいはい」
 キールクラインは椅子から立ち上がると、言われた扉を開けラヴィリアの後ろに続いて部屋に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
「どうぞ」
 通されたラヴィリアの部屋は、窓の多い部屋だった。
 部屋の壁二面が大きな窓とバルコニーになっている。日の光が暖かく部屋の中を包み込む。部屋の中央には大きめな天蓋つきのベッドがあり、全体的にラヴィリア好みの明るい色使いの部屋だった。
 キールクラインは部屋に入ると床の上に転がっていたクッションを手繰り寄せその上に腰を下ろした。実はこの部屋、テーブルや椅子といった調度品がないのだ。ラヴィリアはお盆を床に置くと、キールクラインと同じく床の上にペタンとしゃがみ込んだ。座るとわかるのだが、床の上にはラヴィリアの遊び道具らしきものが散乱していた。
「これぞラヴィリアの部屋って感じだな」
「そうかな」
 本来ならばこの部屋の壁沿いに置かれている飾り棚に置かれるべき物でさえ、無造作に床の上に置かれている。部屋が散らかっているとも違う。床の上を中心に、ラヴィリアの世界が出来上がっているのだ。
 そしてキールクラインが一番驚いたのは、宝玉が床の上に散乱していたことだ。宝玉は鶏の卵より少し小さい球体の宝石だ。色もさまざまでキールクラインは手近にあった一つを摘み上げると、光に透かして宝玉の中をのぞき込んだ。太陽の光を受けて不思議に光る宝玉。これは賢者や巫女にとって大切なものだ。この宝玉に魔力や法力を吹き込むと、杖に姿を変える。賢者や巫女は杖を使い、魔術や法術の力をコントロールし増幅させる。いわば媒体のような物だ。普段は持ち歩きが便利なようこのような球の形態をしているのだ。
「それ、好きなのをあげるわよ」
「えっ」
 キールクラインは振り返ると、そこには今しがた服装を整えてもらったラヴィリアが、それを着崩し始める姿が目に入った。
「またマーシャに怒られるぞ」
「その時はその時よ。この服と髪飾り重いんだから」
 ラヴィリアは、綺麗に結い上げられていた髪を全部ほどくと、サークレットを髪止め代わりに額に戻して、キールクラインの横に寝っころがった。
「キール、知ってた? 呪いの掛かった杖の方が宝玉になると綺麗なのよ」
「……ラヴィ、今なんて?」
「綺麗なのよ?」
「その前」
「呪いの掛かった杖?」
「呪い!」
 キールクラインは、持っていた宝玉を慌てて離した。ラヴィリアはそんなキールクラインをポカンとした表情で見つめていた。そして火が付いたように笑い転げた。
「大丈夫よ。呪いと言っても杖の力を引きださないかぎりただの棒よ。これがまた棒術用に持ってこいの打撃力なのよね」
「棒術用にねぇ……」
 キールクラインは改めて、一つ一つの宝玉を品定めしはじめた。さすがティシャナの巫女姫の私物だけある。宝玉から感じる力は、他国では国宝級クラスの物だ。実はこの宝玉のほとんどが他国で管理に手に負えなくなったものだった。宝玉を所有するには、大元の杖を納得させるだけの法力を必要とした。さらに呪いの掛かった杖となれば、ひねくれ具合は相当のものだろう。手に負えなくなった宝玉は、最終的にはティシャナに持ち込まれ、修道院又は賢者の学院に献上される。この宝玉達はラヴィリアの法力を見込んで献上されたものなのだろう。キールクラインも国にいれば、献上されてゆく。
「あのね、これが毒の呪いでしょ、体が動かなくなる呪い、使った者を……」
 ラヴィリアは、実に楽しそうに呪いの杖達を紹介してくれる。それはまるでペットか何かを紹介するようなフランクさだ。しかもこの光景には不釣り合いな怖い言葉付き。説明の最後に『どれがいい』と質問が飛んできて、キールクラインは思わず身を引いてしまった。
「ああああ、俺はこの体が動かなくなるのでいいよ」
 キールクラインは、ラヴィリアが説明した中で一番呪いが軽そうな宝玉を指差した。
「それでいいの、まだ他にも……」
「い、いいよ! 俺もそのうち嫌って言うほど献上されるだろうし」
「それもそうね」
 キールクラインは、ラヴィリアの申し出を丁重にお断りしたところ納得してもらえたようだ。
――セーフ。
 こんな危険な物を幾つも持っていて、間違って使ってしまったらと思うと怖くてたまらない。キールクラインは床の上から立ち上がると、譲り受けたばかりの宝玉に魔力を吹き込んでみた。すると宝玉は光を発しながら一振りの杖へと姿を変えた。普通の杖より金属の密度が高いようだが、羽根のように軽い。一体どんな素材で出来ているのだろう。賢者としての探究心が触発される。
「お、軽い。ホントにこれなら棒術にはもってこいだ」
 キールクラインは杖をさっと振ってみた。ヒュンと気持ち良く風の切れる音がした。
「でしょ」
 キールクラインは何度が杖を振った後、また宝玉に姿を戻して鞄の中にしまった。
「ありがとう、もらっておくよ。ところでラヴィリアはまだ棒術習っているのか?」
「もちろん。私、結構強くなったわよ」
「じゃあ今度手合せ願おうかな」
「いいの? 泣いても知らないわよ」
 二人の楽しそうな声が部屋の中に響く。キールクラインは再び床の上に座ると寝転んだ。
「……ここはまるで時が止まっているみたいだな。子供時代に戻ったみたいだ」
 心地の良い時間と懐かしい空気が、帰国前から張りつめていた気が緩む。
「……止まっているよ」
 床の上で背中越しにラヴィリアが何か呟いた。
――いま、なんて言ったんだ?
 その声は同じ室内にいるのに、何故か聞き取るのが困難であった。それはラヴィリアの声がいつもよりトーンが低かったからもある。
「ん? ごめん聞き取れなかった」
「……いいの、何でもない。それより旅のお話をしてよ。ねっ!」
 ラヴィリアそう言うと自分は起き上がり、キールクラインを引きずり起こしにかかる。しかしキールクラインは、ラヴィリアの態度に何か不自然さを感じた。
「本当にいいの? 何か俺に聞いて欲しい事があるなら……」
「いいの!」
 強い口調で制された。
「ラヴィ?」
「……だって今日はキールが戻ってきて、私との約束を守ってくれたんだもん。こんな素敵な日はないじゃない。それに今日は一年分ぐらい笑ったわ」
 そう言い放ったラヴィリアは、今日何度目かの笑顔をキールクラインに向けてくれる。
 どうやら気を回し過ぎたのだろうか。キールクラインはラヴィリアのリクエストに答えて、旅先での話を催促されるがままに披露した。和やかな二人の時間は、瞬く間に過ぎて行く。

   * * *

 キールクラインは、ティシャナの城下町を一人歩いていた。
 一時間ほど前ラヴィリアのいる修道院を発ち、その足でティシャナ王都の城下町に入った。ティシャナは中立国のため、様々な国の要人たちが滞在している。そのため入国するには、城門で厳重な身元のチェックを受けなければならない。しかしキールクラインは賢者のマントを身に着けている。このマントは賢者のみが身に着ける事を許され、その地位を保証するものだ。それを巧みに利用し他の賢者達に紛れてティシャナにこっそり入国した。

 ティシャナの城下町はたくさんの賢者や巫女が往来し、他国とはまったく違った雰囲気を発している。キールクラインはティシャナが特殊な町であったことに今更ながら気が付く。商店も魔術や法術の商品を扱う店が多く、すべてが豊かだ。歩道も美しく整備されており、町全体が一つの芸術作品のように思える。
 キールクラインは、城下町のメインストリートへと足を進めると、ふとその歩みを止めた。その目に飛び込んできたのは、幼き日を過ごしたティシャナの王城であった。
――ティシャナ城……。
 王城はティシャナの中で一際美しく、日の光を受けて光り輝いている。キールクラインは、城を見上げると懐かしさがこみ上げてきた。しかし同時に胸を重く苦しめる。
「俺、あそこに戻るんだよな?」
 キールクラインは、そのまま人の往来の激しいメインストリートに立ち尽くした。どれくらいそのままでいただろうか。瞬く間の一瞬、キールクラインはくるりと城に背を向けると、そのまま人混みの中に消えて行ってしまった。

   * * *

 その女性は一人で酒場に来ていた。店の窓辺の席を陣取り、微動だにせず一人で窓の外を眺めている。よく見ると注文した酒にはほとんど手を付けていない。ようやく動き始めたかと思うと、持っていた小ぶりのポーチから懐中時計を取り出し、蓋を開けて時刻を確かめた。時計の針は、ちょうど昼時を指している。
 女性は、懐中時計を元のポーチに納めると、代わりにコインを数枚取り出しテーブルの上に置いた。注文した酒の勘定だ。
「お勘定ここに置くわね」
 女性は近くを通ったウェイターにそう告げると、席を立ち店の出入り口の方へ足を向けた。しかし、出口の扉まであと少しというところで、女性の目の前に立ちふさがるモノが現れた。
「失礼、そこを通してくださらないかしら」
 女性はすぐに自分の前に数人の人間が立ちふさがったのを理解した。そしてその者達に道を開けて欲しいと願い出た。しかし相手が悪い。女性の前に立ちはだかっているのは、昼間から酒場で飲んでいる者達だ。
 酒場中が何かが起こりそうな気配に気づき、ざわつき始める
 出口に立つその女性は、地味なワンピースを着ている。若い女性にしては、ずいぶん落ち着いた色の服だ。しかしその容姿は、地味な服装に反するほど美しかった。無造作にまとめられたルビー色の髪。意志の強そうなグリーンの瞳は自分の道を塞ぐ者達へまっすぐ向いている。凛とした気品を感じる。なぜこのような女性がこんな酒場に来ているのか不思議でならない。
「聞こえなかったようなのでもう一度言いますが、私はそこを通りたいの、だから通してくれないかしら?」
 女性はその男達に怯える事もなく、一貫した態度で臨んでいる。声は男達に届いている。しかし彼らはさらに女性の周りを取り囲みコソコソと内輪話をしている。
「やっぱりそうだよ」
「俺この前の式典で、クローディア王女を近くで見たんだよ」
「絶対そうだって」
 男達は、おかしなことを口走っている。女性は男達の様子を黙って見ていたが、突然美しい唇の端を上げて笑みを作った。
「あら、ばれていましたか。仕方がないですね」
 女性はいとも簡単に男の言葉を肯定してしまった。そう彼女が、ティシャナ王国の第一王位継承者クローディア王女である。
「王女様だって?」
「まさか!」
 酒場にいた者たちが一斉にクローディア王女に視線を向けた。今まで事の成り行きを傍観していた客達が騒ぎ出す。
――ちっ、ここなら、誰も気がつかないと思ったのに。
 クローディアは、心の中で愚痴る。
 表情は完全な営業スマイルで、周囲の声に優雅に手を振って答えてはいるものの、その本心は、自分の素性をバラした男達に対して怒りで腹の中がふつふつと煮えたぎっていた。まさか一国の王女がそんな事を思っているとは露知らず、酒場中の酔っ払い達が一斉にクローディアに押し掛けてくる。
「まさか本物のクローディア王女様に会えるなんて感激です!」
「このようなところにまでおいでになるなんて、庶民の暮らしを知るためにお忍びですか」
「何事も勉強ですので」
 クローディアは、終始微笑みを絶やさず受け答えする。
「姫様、俺たちと一緒に飲みましょうよ」
「私、皆様と知り合えて本当に嬉しく思っています。しかしもう城に帰る時刻ですので……」
 クローディアは、酔っ払い達の誘いを丁寧に辞退し、この場を治めようと思った。しかし、この時ばかりは場所と相手が悪かった。酔っ払い達はクローディアの話など聞いておらず、さらに距離を詰めてきた。
「そんなことを言わないで、姫様」
「ですが……」
 クローディアが言葉を最後まで言い終わる前に、数人の男達がクローディアの腕をつかんだ。
「っ! 何をなさいます」
 流石のクローディアも一瞬だけ営業用のスマイルが解けた。しかしすぐに立て直すと、男達に捕まれた腕を振り払った。しかし、酔っ払い達は執拗にクローディアを自分たちの席に呼ぼうとクローディアの肩を掴み、その体を乱暴に引きずる。
 クローディアは、多少の荒事は慣れているが、我慢も限界に来ていた。その美しい顔に怒りの表情が浮かべた。そして――
「皆様、いい加減になさいませ!」
 クローディアは自分の立場と状況を踏まえて、怒りを抑えながらもその場の人々に一声を浴びせる。その凛とした声が、一瞬その場に居合わせた者の手を止める。しかし、それもほんの束の間であった。
「あちゃー、姫様に怒られちゃったよ」
「痺れる」
「記念になったな」
 酔っ払い達は、クローディアから受けた一喝に思い思いに感想を述べる。ある者は手を叩いて喜び、ある者は羨望の眼差しを向ける。そして先程より輪をかけて、クローディアを誘いにかかりはじめる。クローディアの一喝は完全に逆効果だった。酔っ払い達を更に調子づける事になってしまった。
「もう、本当にやめてください」
 クローディアの小さな悲鳴のような叫び声は、そんな酒場の喧噪に消される。――とその時であった。
「まったく、大の男が寄って集って見苦しいな。それでもあんたら男かよ!」
 クローディアを取り囲む男達の背後から、彼らを非難する声が上がる。それはいまの酒場の喧噪にも負けない、よく通る声だった。
「何だと!」
「どこのどいつだ、顔出せ!」
 男達は声がした方に一斉に背後を振り向いた。酒場は、間口が狭く奥に長い。まだ日のある時間とはいえ窓から離れた奥の席は薄暗く視界が悪い。男達は、目を凝らして声のした方を探るが、そこには空のテーブル席があるだけで誰も居なかった。周囲の客にも視線を配るが、傍観していた他の客は自分ではないと首を横に振るばかりだ。
「誰もいねえじゃねぇか」
「あ、王女様もいない!」
 誰かが妙な事を言った。
 男達は、店の奥から再びクローディがいた場所に視線を戻した。しかし本当にクローディアは消えていた。彼らが一瞬クローディアから意識を反らしていた隙に酔っ払い達の人垣から脱出したのだろうか? いやクローディアを取り囲んでいたのは、野次馬も含め十人はいる。この人数の誰からも悟られずに逃げるのは不可能だ。
「ど、どうなっているんだ?」
 酔っ払いの男達は、この状況に困惑した。
「少し飲みすぎたんじゃないですか?」
 先ほどの声がまた背後からした。
 酔っ払い達は、今度こそとその声の方に振り返った。すると柱の影から見知らぬ男がふらりと姿を現した。なんと、その男の片腕には、クローディアが抱えられているではないか。
「貴様! 俺達はこれから王女と楽しく話をするんだ、邪魔をすると言うなら……」
 男達は怒りのまま相手を怒鳴りつけた。しかしその威勢は、最後まで続ける事が出来なかった。
 なぜなら……
「何ですか、邪魔をすると言うなら、どうするんですか?」
 突然クローディアを人垣から浚った男は、ゆっくり男達の前に進み出ると、にっこり微笑んだ。
「けっ、賢者様!」
「賢者だって!」
 そうなのだ、突然現れた男は、あの名高い賢者のマントを着た若者であった。現れたとき暗がりでマントの色を判別出来なかったが、確かに濃いグリーンのマントを着込んでいる。賢者と巫女の国と謳われたティシャナ王都内で、このマント着ている者がどういう身分の者か、小さな子供でも知っている。賢者のマントは、魔術と学問を修めた証。
「あれ、もしかして俺とやり合うおつもりですか?」
 この賢者は、どこが惚けているような声で男達の前で足を止める。
「それなら仕方ない……命の保証は致しかねます。よろしいですか?」
 賢者は、そういうと浮かべていた笑みを消した。そして先程までの飄々とした話口調から、酷く落ち着き丁寧なものに変わった。その声音の変化は、彼が本気でそう出来ると明示しているかのようで、ここにいる者にとって脅しには十分だった。
「そんな滅相もございません!」
「いやだな、俺たちは……」
「ちょっと、悪酔いしているみてぇです。あは、あははは……」
「そうですかぁ、それは気を付けた方がいいですよ」
 男達は、賢者の言葉を聞き終わる前に、蜘蛛の子を散らしたかのように薄暗い店のどこかに消えて行ってしまい、賢者とクローディアは、静かになってしまった酒場の出入り口に取り残される形になった。
「あらら」
「あららじゃありません!」
 静かになったのもつかの間、今度は賢者の腕の中で静かに事の流れを傍観していたクローディアが声をあげた。
「助けていただいたのは感謝いたします。しかしいつまで私に触れているのですか、 無礼ではないですか!」
 クローディアは、まだ自分を抱きかかえている賢者の手を乱暴に振り払った。腕を振り払われた賢者はというと、口をぽっかり空けた間抜け面でクローディアを見下ろしている。そして、何を思ったのか賢者は堰を切ったように笑い出した。
「ぶっ、あはははは!」
 それも腹を抱えながら、酒場中に声が響き渡るような大笑だ。
「何を笑っているのです。お黙りなさい!」
 クローディアの檄が飛ぶ。
「だってだって、クローディア王女が、あははは!」
「私がどうしたというのですか!」
「え〜、俺をお忘れになられたのですかぁ?」
「どちら様かしら? 覚えがないわ」
 クローディアの賢者に対する態度は大変冷たかった。彼女の周囲には、彼女に媚び入って地位を上げようとする賢者は大勢いる。クローディアはこの賢者もその一人として捉えていた。先程の酔っ払いは一般庶民だが、賢者と王家は主従の関係にあるので、口調や態度に手加減を加えない。クローディアは腕組みをしたまま、賢者を睨み付けた。当の賢者は、笑いすぎて腹が痛いらしく、目元に涙さえ浮かべている。
「うわ、もうその冷たい物言い酷っ! でも久しぶりに聞いた懐かしいなぁ」
 この若い賢者は、訳が分からないことを言う。クローディアは酔っ払いより達の悪いのに捕まったと思った。賢者はいったん笑うのを我慢すると、怒れるクローディアに向き合った。そして一度呼吸置くと口を開いた。
「クローディア殿下、本当に俺のことお忘れですか? 俺は貴方の弟だと思っていたんですが、もし忘れたと言うなら……本気で泣きますよ?」
 それは真面目なのか、ふざけているのか理解に苦しむ弁明だった。
「弟ですって?」
 クローディアは、賢者の言い出した『弟』という言葉に一瞬厳しい表情が緩んだ。彼女には幼い頃、実の弟ように可愛がった少年がいた。しかし、その少年は遠い旅の空の下にいる。もうあれから何年も会っていないが、彼はどんな青年に成長しているのだろうか。
「何をふざけたことを言っているのです! 私には弟などおりません!」
 クローディアは、そう言うと賢者を睨みつけた。しかし、睨みつけられたはずの賢者は、クローディアに向かって優しく微笑んでいるではないか。クローディアはこの時はじめて賢者の顔をはっきりと見た。
「……嘘」
 クローディアの口から、言葉にならない声が零れる。
 なぜ今までその可能性を頭に浮かべなかったのだろうか。酒場が暗かったからか? それとも彼の声が記憶の中より低くなっていたからか? いや、全ては自分の先入観のせいだ。
 そのせいで目の前にある真実を覆い隠してしまった。クローディアは自分より少し高い位置にある賢者の襟を引っ張り、賢者の顔を自分の方に近づけた。
「……キール、なのね?」
 クローディアは、幼き日共に過ごした少年の愛称を呟いた。
「はい、クローディアお姉ちゃん」
 賢者は、確かに返事をした。
 その瞬間クローディアの中から怒りの感情も王女としての威厳も全てが遠くに追いやられるのが分かった。代わりに沸き上がったのは、姉として弟を慈しむ感情だった。クローディアはキールクラインの襟から手を離した。そしてその手を再び伸ばし、今度は強くキールクラインの身体を抱きしめていた。
「いやだ、こんなに背が伸びて! 声も低くなっているし……もうっ! 全然あなただと分からなかったじゃないの」
 クローディアはキールクラインを抱きしめると、肩口に顔をうずめて、体全体でその存在を確認した。
「おかえりなさい……キール!」
「ちょっとお姉ちゃん! 人前ですよ!」
 キールクラインは、全力で抱きついて来たクローディアに少し焦っている様子だ。しかしクローディアはキールクラインの訴えなど、聞き入れる気はない。
 クローディアの気持ちは子供の頃に戻っていた。幼いキールクラインとラヴィリアをよく抱っこしていた。そうしていると、本当に二人の姉になった気分になれるのだ。クローディアのこそばゆい思い出だ。
――ああ、どうしたらいいの。わたしのちいさな弟が、こんなに大きくなって帰ってきてくれた。
 クローディアは、キールクラインの肩口で息を吸い込んだ。もうキールクラインからは子供の甘い香りはしない。旅の汚れがたっぷりと沁み込んだ服とマントは、何とも言えない独特な匂いがする。
「何を照れているのよこの子は! さあ姉様によく顔を見せなさい!」
 クローディアは、キールクラインから少し離れると、じっくりキールクラインを観察した。キールクラインの背は完全にクローディアを越していた。抱きしめて分かったが、体もがっしりしていた。クローディアの知る、子供のキールクラインはここにはいない。目の前にいるのは立派な賢者へと成長した青年だ。
「ただいま戻りました」
「へぇ〜、あの鼻タレ小僧が男らしくなっちゃって」
「えー、俺、鼻なんて垂らしてないよ?」
「それは言葉の綾です。それよりティシャナに帰ってきたということは、修業の旅が終わったのね!」
「まぁ、それなりに」
「ふふ、キールのその言い方、貴方が中途半端な事で帰ってくるはずがないでしょ」
「やっぱりお姉ちゃんは何でも御見通しだ」
「それは姉ですからね。まだ私の所に知らせが来ていないという事は、城にはまだね?」
「それも当たり。城に入る前にティシャナを見ておきたくて、街の情勢を知るには酒場辺りが手っ取り早いと思ったんだけど……まさか、帰ってきた早々、お姉ちゃんと考えが被るなんてね」
「ホント、奇遇ね」
 クローディアは、キールクラインの言葉をさらりと受け流す。キールクラインに街へのお忍びや、様々ないたずらの手ほどきをしたのは、クローディアである。思考パターンが似てしまうのは、当たり前なのかもしれない。キールクラインの外見は随分変わったが、中身はそう変わっていないようだ。
 と、その時であった。酒場内に城の従者達が息を切らしながらやってきた。クローディアはお忍びの際、滅多に従者を連れていない。その代わり滞在する場所を知らせるようにしていた。従者はクローディアを目視すると、素早くその前に整列した。
「姫様!」
 従者達は、お忍びのクローディアに略式の礼をする。
「何事ですか?」
「はい、国王陛下がお呼びでございます」
「父が?」
「はい! 実は先ほど次期賢王、ロイト家の長子キールクライン・フォン・ロイト様がティシャナにお戻りになったという情報が入りまして、賢者の学院の者達が手分けをして御身を捜索しております」
「そうですか、分かりました。父上にはすぐ戻ると伝えてください」
「はい、姫様」
「それから、賢者の学院の者達には、学院に戻るようにふれを出してください」
「しかし、姫様……」
「案ずることはありません、この騒ぎの原因はすでに私が押さえました」
 クローディアは、従者にそういうとチラッとキールクラインの方を見上げ、意地悪そうにキールクラインに微笑んだ。
「ねっ、そうですわよね。キールクライン?」
「そうですね」
 従者達は、王女の視線の先にいる若き賢者を一斉に見た。
「この者が、キールクライン・フォン・ロイトですわ」
「姫様、本当でございますか!」
「ええ、私が可愛い弟を間違えるはずがないでしょ」
 キールクラインは、この場の気まずい雰囲気に照れ笑いをして誤魔化した。
「すいません、お騒がせしちゃったみたいですね」
「いえ滅相もございません。ご帰還お祝い申し上げますキールクライン様!」
 従者達は、一斉にキールクラインの前に跪いた。そして今までクローディア達の様子を静かに伺っていた酒場の人々が騒ぎ出した。
「あの方が、次期賢王様!」
「姫様がそうおっしゃるのだから確かよ!」
「おい、次期賢王様がお帰りになられたって!」
「今日はお祝いだ! 鐘をならせ!」
 その場に居合わせた人々すべてが、キールクラインの帰国に沸きあがった。
「キールクライン、もう逃げられないわよ、観念なさい」
「……そう、みたいだね」

   * * *

 キールクラインとクローディアは従者に促されて、酒場の外に出た。するとそこには、キールクラインの姿を一目見ようとたくさんの人が押しかけていた。その人の群れは、どうやら城まで続いているようだ。
「あー、これは本当に逃げられないな」
 キールクラインは、自分に浴びせられる歓声をまるで他人事のように見ていた。
「行くわよ」
 その横で冷静なクローディアが、キールクラインのマントを引っ張った。キールクラインは、ふと我に返ると自分より三つ年上の姉を見下ろした。このティシャナを旅立つ前は、自分がクローディアを見上げていた。しかし今はキールクラインがクローディアを見下ろしている。
――変な感じだ。
 月日はこれほどにいろいろな物を変えてしまうものなのか。
「はい、お姉ちゃん」
 キールクラインは答えた。しかしクローディアはキールクラインの返事に不満なようだ。
「お姉ちゃんじゃないでしょ! こういう場面では、私をエスコートするのよ! 忘れたとは言わせないわよ」
 クローディアは、周りに居る人間に聞こえないように、キールクラインに小声で話しかけた。
「あ、そうでした、そうでした」
 キールクラインは慌てずゆっくりとクローディアの御前に跪いた。クローディアはそれに合わせてキールクラインに自分の手を差し出した。キールクラインは、差し出された手にキスの挨拶をする。
「クローディア・ルン・ティシャナ殿下。私キールクライン・フォン・ロイトは、再び殿下にお会い出来たことを嬉しく思っております」
「私もですキールクライン。さあ共に王の元に参りましょう」
「はい」
 その瞬間、城下に大きな歓声が巻き起こった。
 キールクラインは立ち上がると、クローディアの手を取り、二人を取り囲んでいた群衆から迎えの馬車に乗り込む。沿道は人で埋め尽くされていた。キールクラインはこの時、自分に架せられているモノの大きさを思い知ったのであった。
 
 

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