花の中の花 2章

たんぽぽと少年


 人は、眠りの世界から帰る方法を、どうやって覚えるのだろう。虚ろな世界と現実の境目は薄いカーテンを引いたように曖昧だ。彼は瞼を薄く開けると、見知らぬ天井が目に入ってきた。世界に音が戻ってくる。時を刻む時計の音と、風が木立を揺らす音だ。虚ろな意識の中、瞬きを数度繰り返してから、そっと視線を動かす。
 ――眩しい。
 窓が見える。薄手のカーテンが引いてあり、室内には日の光が優しく差し込んでいる。ここは白い壁に囲われた部屋だった。
 彼は自分の身体が横たえられているのを理解した。身体の横に置かれている手の指先を動かすと、さらりとした布地の感触が伝わってくる。何となく、そのまま手を持ち上げようと思った。しかし、手に力が入らず布地の上に手の甲から落ちる。この時はじめて、自分の身体の感覚が恐ろしく鈍いことに気がついた。ならばと身体を横に向けようと思ったが、同じく身体にも力が入らない。
 彼は動くのを諦め、再び天井を仰ぎ見た。背中から伝わる柔らかい感触。どうやら自分はベッドの上に寝かされているようだ。
――ここはどこだろう? ……知らない場所だ。
 彼は自分が置かれている状況を、すぐには理解することが出来なかった。
「目が覚めたか?」
 その声は、あまりに突然降ってきて、正直なところ心臓が飛び上がりそうなほど驚いた。室内の静寂を打ち破る男性の声。彼は慌てて声の方に視線を動かした。ベッドの足側に古ぼけた椅子が置かれている。そこに一人の青年が腰を下ろしているのが見えた。
――いつから、そこに?
 人の気配などまったく感じなかった。
 椅子の人物に声を掛けようと思ったが、思うように声が出ない。
「……うっ」
 口の中がカラカラだった。尋常じゃない喉の乾きは、声帯の粘膜が張り付いて唸り声をあげるのが精一杯だった。
「……ちょっと待っていろ」
 青年は、椅子から立ち上がると、読んでいた本を棚の上に置き、代わりに水差しの乗った盆を手にした。そしてベッドの横まで歩みよるとマットレスの淵に腰を下ろした。
 どうするのだろうと見ていると、水差しの置かれた盆を枕元のサイドボードの上に置いた。そしてベッドに横たわる自分の背中に腕を差し入れ、身体を少し起こしてくれた。
「大丈夫か? これで苦しくないか?」
 声が出ないので、首を縦に振って意思表示をする。青年はそれを確認すると、クッションを背中に差し込んでくれた。これで一人でも身体を起こしていられる。
「いいか。今から水を飲ませるが、ゆっくり飲むんだぞ。ずっと何も口にしていなかったから、身体が受け付けないはずだ」
 そう説明すると、盆の上に置かれた水差しを口に当ててくれた。水差しの水が、ゆっくり口の中に広がる。
「少しずつだ」
 水が舌から喉に落ちてくる。何と表現していいのだろうか。これが世に言う命の水。このまま一気に水を飲み干してしまいたかったが、青年によってそれは止められた。
「……あ、ありが……とう……ございます」
 ようやく声が出た。
――自分の声はこんな声だっただろうか?
 水を与えられて、意識が少しクリアになった気がした。目の前の青年をよく見ようと、まだ虚ろな目の焦点を合わせる。しかし、水差しを盆の上に置いた青年は、彼の額に手を置いて視界を閉ざした。熱くもなく冷たくもない調度良い頃合の人肌が額を覆う。
「熱は……ないな」
 まだ喉が痛むので、うなずいて見せた。
「どこか痛むところはあるか?」
「……全身」
「だろうな」
 そう言うと今度は唐突に額から手を退かされ、青年と目が合う。紫色の瞳がこちらをじっと見ていた。
「あ、あの……」
 身の置き所のない恥ずかしさを感じ、思わず視線を逸らしてしまう。
「また横になるか?」
「このままが、いいです」
 水を飲むため起こされたが、このまま上体を起こしていたかった。その方が周囲をよく見ることが出来るからだ。
「分かった。だがまだ安静にしていろ」
「は、はい……」
 反射的に答えた。この人から発せられる言葉には、なぜか抵抗が出来ない。それは言っている事が正しいというだけではない、彼の言葉からは何かしらの抑止力的な強さを感じる。目の前にいる青年は最初黒い髪をしていると思った。しかし日の光の中にいると紫掛かって見える。色素の薄い肌は、よく見ると左側の頬に横に伸びた傷がある。髪で隠しているようだが、至近距離のため気が付いてしまった。落ち着いた紫色のスーツを着ている彼は、まるで絵からでも出てきたような優雅な青年だった。気後れしてしまうのはそのせいだろう。
「今から医者を呼んで来る。少しの間席を外すが、何かして欲しいことはあるか?」
「……わかりません」
 青年は少し困ったような顔をする。
 それはそうだ。自分でも『わかりません』はないだろうと思う。しかし本当に何も分からない。
「それもそうか。目が覚めたばかりで状況が分からないか……」
 確かにまだ頭が重だるく、意識がぼんやりしている。周囲の情報は目に入ってくるが、自分の事となると霞が掛かったようにぼんやりしている。
「しばらく寝ていろ。帰ってきたら起こすからな」
 青年はそう言ってベッドから立ち上がり、こちらに背を向ける。
「……えっ、あ、待って、待ってください!」
 先程まで思うように力が入らなかった手は、いつ復活していたのだろうか?彼は青年の服の裾を強く掴んで呼び止めた。
「んっ、なんだ? 何か欲しいものでも……」
 何故呼び止めたのか自分でもよく分からなかった。本能的に手が動いた。
「す、すみません!……僕は……えっと……あの……」
 何か言わなければいけないという思いはあるが、何を話してよいか分からなかった。この胸中に占める不安をどう表現していいのか分からない。
 青年は服を掴んでいた手を取り布団の中に戻してくれた。手を取られて気づいたのだが、指先が震えていた。
「……大丈夫だ。何も心配しなくていい、俺はここを出たら知り合いの医者を連れて帰ってくる。それだけだ」
 青年はまるで子供に言い聞かせるようゆっくり説明をすると、彼の頭を撫でる。寝ていてボサボサになっていた金髪が更に乱れるが、彼はそれが嫌だとは思わなかった。
「落ち着くまで、少し話でもするか?」
「……はい」
 青年は彼の返答を聞くと、再びベッドの淵に腰を下ろした。
「さて何から話すか」
「……あの、僕はどうしてここに?」
「お前は、街外れの茂みの中で倒れていたんだ」
「街外れに倒れて……ですか?」
「ああ、偶然俺達が乗った馬車がその場を通りかかってな。お前を見つけた。それで急いで街まで運んだわけだ」
「そ、そうだったんですね……あ、お礼を言っていない」
「礼にはおよばん」
「いえ、きちんとお礼を言わせてください。助けていただいてありがとうございます」
 彼は青年に向かい深々と頭を下げた。
「当然の事をしたまでだ。それより何であんな所にいた?」
「それは……」
 ――そうだ、僕はなんで街外れに倒れていたのだろうか?
 彼は必死に頭を動かし倒れる前の記憶を呼び起こそうとした。しかし目覚める前の事を思い出そうとすると、意識全体に靄がかかっているようで、上手く思考がまとまらなかった。
「すいません」
 口から出たのは謝罪の言葉だった。
「……まあいい、こちらは別に詮索しないさ」
 返答をしない事で、青年に気を使わせてしまったようだ。
「ごめんなさい……」
 そういう訳ではないのだ。彼は会話をうまく紡ぐことが出来なかったのだ。だがここでこの青年との会話を終わらせてしまったら、この青年は再び席を立ってしまう。その前に聞いておきたい事がある。
「あの、こちらから返答しないで……質問するのは大変失礼な事だと思うのですが……教えていただきたい事があります」
 勇気を振り絞って会話を紡ぎだす。
「なんだ?」
「あの、あなたは誰ですか?」
「そういえば名乗っていなかったな、これは失礼した。俺はクロード=ローレンという。この街には少し長く住み着いている」
 クロードはそういうと右手を差し出した。握手を求められているのだ。彼は布団から右手を出すと、クロードの手を握った。先程の指先の震えはもう止まっていた。
「……クロードはじめまして。僕とは初対面ですよね?」
「ああ」
「……そうですか」
「ところでお前は?」
「えっ?」
「お前と言うのもなんだ。名前ぐらい教えても差し支えないだろう」
「……名前ですか、僕の名前は……」
「それもだんまりか?」
「いえ、違います! 違うんです」
「何が違うんだ?」
 彼は名前を言いたくないわけではなかった。言いたくともそれが…
「分からない」
 その言葉を口にした瞬間、背中から嫌な冷や汗が伝い落ちた。頭の芯から血の気が引くような気分の悪さ。彼は耐え切れず顔を両手で覆い、クッションに額をつける。その様子を見ていたクロードは、慌てて肩を支える。
「どうした、気分が悪いなら少し横に……」
「……だ、大丈夫です」
 身体の震えが止まらない。この震えをどうにかしたくて、支えるクロードの腕を掴む。
「無理をするな! 顔色が真っ青だぞ」
 心配しているクロードの顔が横にある。
「クロード、僕は、……」
 彼はクロードをじっと見据えた。そして震える唇をぐっと横に強く結んでから、口を動かしはじめる。
「自分の名前が分からない」
「……はっ?」
 クロードは目を見開き、声を詰まらせている。
「ちゃんと指の動かし方も分かる。水の飲み方も。でも自分の事だけが靄が掛かったみたいに分からないんです」
 彼は両手を開いたり閉じたりしてみせた。その動きに何も問題はない。自分の手の平から、クロードの方に視線を戻すと、クロードは驚きを通り越し顔から表情をなくしていた。当たり前だろう。
「なら、さっき聞いた街外れに倒れていた理由。言わなかったのではなく、分からなかったのか?」
「はい」
「それは冗談ではなく?」
「すいません、残念ながら冗談ではないです」
 クロードは、今度は難しい顔をしてこちらを見ている。こんな顔をさせている元凶はまぎれもなく自分である。
「……記憶喪失だと?」
 記憶の喪失。その言葉は現状を正しく表している。彼は今日この時以前の自分に関する記憶を失っていた。

    * * * *

 クロードは軽い眩暈を感じた。
 街外れで拾った金髪の少年は、話し方に擦れている部分が見受けられない。表情と言葉にも裏表がなく、自分の思っていることを素直に口にしている。立ち居振る舞いからも育ちの良さを感じる。怯えている素振りを見せるところから、何かトラブルに巻き込まれたのだろうと想定していた。まずは落ち着かせて身元を聞き出そうと、会話を続けてゆくうちに、自分がとんでもないモノを拾ってしまったことに気が付いた。
『自分の名前が分からない』
 いわゆる自分は記憶喪失だと言うのだ。
「はあぁ……」
 クロードは、肺の中の息を全部吐き出すほどのため息をついた。
――まあ、一人頭を抱えていても、どうしようもないか。
 最初は少々混乱したが、まずは医療の専門家に相談するべきだと考えに至った。それに少年が目を覚ましたら、ドクターを呼びに行く手はずになっていた。
 この金髪の少年の倒れていた状況は、大変特殊だった。少年の身なりは軽装で両足には靴がなく、どう見ても何かから逃走してきたようにしか見えなかった。このアルデゥイナという街は、一昔前よりはだいぶ治安が良くなったが、今でも違法な人身売買や誘拐の類がなくなったわけではない。この少年が前者ならば保護してやらなければ、そして後者ならば一刻も早く家族と連絡を取り安心させなければならない、どちらにしても不特定多数の目のある診療所ではなく、クロードの自宅に匿う方がよいだろうと結論に至った。特にその案を強く押したのはダニエルだった。役所に勤める彼女は、この手の事案を担当に持つこともある。犯行グループを捕縛するチャンスだというのだ。
 彼女は、不敵に微笑み目を光らせた。少し前まで馬車の中で半ベソをかいていた人物だとは思えなかった。
 クロードは、自宅を出るとドクターの診療所へと足を運んだ。しかし診療所の入り口には、『休憩中』という立て札が掛かっておりドクターは留守だった。クロードは懐より時計を取り出す。時刻は二時過ぎを指していた。この時間帯は、午後の診察までの休憩時間だ。ドクターは遅い昼食に出かけているに違いない。
 クロードがようやくドクターを見つけたのは、近所の食堂の片隅だった。ドクターは山盛りのサフランライスとチキンの煮込みを前に、幸せそうに食事をしていた。
「ドクター探したぞ」
「お、ホーレンひゃな……いか!」
 ドクターは口の中に食べ物を頬張ったままクロードに返事をする。
「口の中の物、食べ終わってから話せ!」
 言っている事は分かったが、取りあえず苦情は伝える。クロードはドクターの真向かいの席に腰を下ろした。そして周囲を見回してから、小声でドクターに話しかける。
「家に引き取った奴、目を覚ましたぞ」
 ドクターはスプーンを皿に置くと、口元を横に引いて笑みを作る。
「そうか、眠り姫が目を覚ましたか!」
 ドクターは少年のことを『眠り姫』と隠語を使う。確かに少年の外見は少女のようで眠り姫のようだったが、本人が聞いたらどう思うだろうか。
「容態はどうだ?」
「安定している」
「ならこの昼飯が終わったら、すぐ診に行こう」
「そうしてくれると助かる。あと実は……」
 クロードは、予備知識としてドクターに少年の状態を話そうとした。しかし、背後から人が近づいて来る気配を感じたので、しばし会話を中断させることにした。
「ローレン、アンタが見つけた子、目を覚ましたのかい?」
 クロードの背後から現れたのは、この食堂の女将ロクサーヌだった。どうやらクロードの注文を取りにきたようだ。
「女将か」
 このロクサーヌは、あの場に居た三人以外で少年の存在を知っている数少ない存在だ。ロクサーヌが経営している食堂は、クロードの自宅からすぐの場所にある。クロードは食事の準備が面倒なときなどは、この食堂に足を運ぶことにしている。そのためロクサーヌとは付き合いが長い。彼女は、普段はお喋りが好きな女性だが、人情にも厚くおまけに度胸がある。彼女に少年の事情を話しても、決して口外することなく、それとなく、手助けをしてくれている。
「ああ、さっき目を覚ましたぞ」
「それは良かったねぇ! いつまでも意識が戻ったと連絡がないから、心配してたんだよ」
「いろいろすまないな」
「いいってことさ。ところで容態はどうなんだい」
「そうだ、その話の途中だったな」
 ドクターは食事をしながらクロードの話を聞くようだ。ライスを山盛りにしたスプーンを口に運ぶ。
「まだ身体を思い通りには動かせないようだった」
「そうかい、まあずっと寝ていたら当たり前かねぇ」
「その辺りはドクターに診てもらえば問題ないと思うのだが」
「なんだい、その何か含んだ言い方は、はっきり言っておくれ」
「それがな、女将は『記憶喪失』というのを知っているか?」
「記憶喪失だと!」
 クロードがロクサーヌと会話をしている間、黙々と食事に取り組んでいたドクターは、『記憶喪失』という言葉に反応した。
「ローレン! まさかあの子記憶喪失なのか!」
 ドクターは、口に含んでいた食べ物を吹き散らかしながら、クロードとロクサーヌの会話に乱入してくる。
「ドクター、汚いぞ」
「これはすまん、すまん。それでローレンどうなんだ?」
「ああ、名前と倒れていた事情を聞いてみようと思ったんだが、思い出せないそうだ」
「なんと!」
「ローレン、その子嘘をついているのかもしれないよ。何か事情があって自分の事が言えないのかも」
 ロクサーヌは、心配そうな表情でクロードを見ている。
「それが嘘をついている感じでもなくてな」
「んん、目を覚ましたばかりだしな、ショックな事があって一時的に記憶が混乱しているのかもしれないな。本物の記憶喪失なら、是非診察してみたい」
「ローレン、どうするんだい?」
「とりあえずドクターにこの後診察に来てもらう。考えるのはそれからだ。女将、病人用の食事を一人前テイクアウトだ。それから俺の昼飯を適当に頼む」
「はいよ。ロクサーヌにまかしときな」
 ロクサーヌは、クロードの注文を聞くと、まるで踊るかのように厨房に歩いていった。クロードは、そんなロクサーヌの後ろ姿を、微笑ましく見送った。
 ドクターは、何が嬉しいのか、笑みを浮かべながら皿の上に残っていた食事を片付け始めた。
「燃料充填終了! ごちそうさまでした!」
 ドクターはそういうと空になった皿にスプーンを置き、ごちそうさまと手を合わせる。
「さて、ひとっ走り診療所まで診察鞄を取りに行ってくるか。食後のコーヒーはローレンの家でいただくとしよう」
「おいおい、勝手に決めるな」
「それくらいいいだろう」
 ドクターは席から立ち上がり、ポケットからコインを取り出すとテーブルに置いた。
 丁度ロクサーヌがクロードの前にスープと副菜の季節野菜の盛り合わせを運んできた。
「女将、御代はここに置いておくな。今日も美味かったよ」
「ドクター、いつもありがとうね」
「そういえばローレン、その後ダニエルからの連絡はあったか?」
「いや、ない」
 ダニエルは職場のネットワークを使い、少年の家族から被害の届出が出ていないか調べてくれているが、まだ有力な情報は届いていない。
「これは場合によっちゃ、大変な事になるかもしれんな……じゃあ後でな!」
 ドクターは不吉な事を言い残して食堂から出て行った。
「ローレン、しばらく退屈せずに済むじゃないかい! 良かったねぇ」
「……そのようだな」
 クロードはロクサーヌが運んできた野菜の盛り合わせにフォークをさして口に運ぶ。先ほどから、魔族の勘というのか、厄介事の匂いがプンプンしてくるのが感じられる。
 人間領は毎日退屈しらずだ。

    * * * *

 彼はクロードを送り出した後、また眠りの世界に落ちてしまった。この部屋は、春の優しい日差しが差し込んできて、頬をさする風もまた心地がよかった。背中に差し込まれたクッションは柔らかく、身体をいい塩梅に支えてくれる。
――いつのまに眠ってしまったのだろう。
 彼は自分の傍らで話し声がするのに気づいた。
「あ、すみません。僕、眠って……」
「おや、ごめんよ。起こしちまったな」
 視線に飛び込んできたのは、クロードではなく白衣姿の中年の男性だった。彼は医療器具をサイドテーブルに戻しているところだった。
――この人がドクターだろうか?
 この家は、クロードの自宅兼仕事場であることを教えてもらった。彼以外は誰も住んでいないらしい。
「眠り姫、まだ寝ていて構わないよ」
――ね、眠り姫?
「あ、あの……」
 ドクターらしき人物に話しかけようと思ったが言葉が出てこない。何を話してよいのか、まるで自分は人見知りをしている子供のようだ。
 そのときだった、すぐ横から知った声が上がった。
「ドクター、無駄口をたたかないで、さっさと診察を続けろ」
「そう急かすな」
 彼は、声のした方に顔を動かした。そこには、クロードの姿があった。クロードは腕組みをして壁に寄りかかっている。まただ、彼は同じ部屋に居ても気配を感じる事がない。
「あ、クロードお帰りなさい」
「ああ」
 クロードは特に表情を変えるでもなく、返事をしている感じだ。クロードのこの仏頂面を見て、少し安心する自分がいるのに気が付く。
「ローレン、なかなか可愛い子じゃないか。お前さんには勿体ないんじゃないのか?」
「ドクター、そういう冗談は間に合っている」
 ドクターは、クロードの事をローレンと呼ぶようだ。
この二人は親しい様子だ。彼は二人の会話に割り込むことはせず、話の流れをみていた。
「ちぇっ、どうしてお前さんはそうノリが悪い」
 ドクターは、クロードとの会話をきりあげると、再びこちらに視線を返す。
「行き倒れ君失礼した。私はオラージュ=E=シュラールだ。この街で二十年ほど医師をしている。よろしく頼むよ」
 行き倒れ君とはどうやら彼の事のようだ。
「は、はい、よろしくお願いします。ドクターシュラール」
「ドクターで構わんよ。この辺りの人間はそう呼んでいる」
「では、ドクター」
「よし、受け答えもしっかりしているね。少し触るよ」
 ドクターは彼の両頬を包むように手を置いた。医者の手は冷たいのではと勝手なイメージを持っていたが、ドクターの手は大きく温かい。ドクターは、指の腹で首の辺りを確認しているようだ。初めて会うドクターに人見知りをしていたが、少し気持ちが解れた気がした。
「こちらも問題なし。さて、私としては君の状態を少し説明したいのだが、聞けるだろうか?」
 ドクターは先ほどまでのおどけた口調から一変し、優しくだが真面目に話しかけてくる。
「はい、大丈夫だと思います」
「そう緊張しなさんな、楽な気持ちで聞いてくれ」
 彼は、コクリと頷く。
「まず君を発見した時だが、衰弱が激しく危険な状態だった。ここに運び込んで今日で丸五日間意識がなかったことになる」
「そんなにですか?」
「そう、だがもっと前からあの場所に倒れていたかもしれない。だから油断せずしっかり治す事、いいかな?」
「はい」
「よろしい。だが気を落さんでもいいさ。若いんだ。しっかり食べて寝ればすぐ元に戻るさ。あと両足にある裂傷だが……」
 ドクターはそう言うと、彼の身体に掛けられていた上掛けを足の方だけ剥いだ。シーツの上に揃えて置かれている両足は、つま先からふくらはぎまでに白い包帯が巻かれていた。
 寝ていて痛むと思ったが、まさかここまで痛々しい事になっているとは予想していなかった。
「菌が入って熱が出るかと思ったが、薬が上手く効いたみたいだ。まだ数日は痛むだろうが、室内くらいなら歩いても構わないよ」
「……は、はい」
 彼は包帯を巻かれた足を少し動かしてみた。身体が重く動かすのが辛いのは相変わらずだが、足を動かすと引きつるような痛みが走る。ドクターは裂傷と言っていたが、傷を作った記憶がないので、どんな傷があるのか気になるが、この包帯を取る勇気はない。
「あと一週間もすれば普通に生活出来るようになるかな」
「はい」
「大丈夫かい? さっきから『はい』しか話していないけど……」
 確かに先ほどから『はい』しか言っていない。自分の説明を聞いているのだが、どこか実感が沸かないのだ。
「……大丈夫だと思います。ドクターの説明で自分の身体の状態は理解出来ました。でも何で倒れていたのか、足が傷だらけなのか理解出来なくて……」
「ローレンから聞いたよ。記憶がないそうだね。今も駄目そうかい?」
 声に出して肯定するのが怖くて、首を縦に振ってドクターの質問に答える。
「そうだよな……そうだローレン、この子に何か名前をつけてやってくれ」
 突然話をふられてクロードは慌てたように、寄りかかっていた壁から離れ、ドクターの背後に歩み寄ってきた。
「唐突になんだ」
「いや『君』や『この子』と呼ぶのはどうも他人行儀で良くない、自分の事を思い出すまでの間、仮の名前があった方がいいだろう」
「それはそうだが、なんで俺が?」
「最初に見つけたのはお前さんだろ」
「そうなんですか?」
――初耳だ。
 馬車で通りかかって見つけたとだけ聞いたけれど、クロードが自分を見つけてくれた張本人だとは聞いていなかった。
「俺とローレン、もう一人ダニエルという女性の三人で同乗していたが、その時俺は車内で寝ていたもんで、詳しい状況は知らないが……ローレン、お前さんが見つけたんだったよな?」
「ああ」
「本当にありがとうございます」
「いやいや、これしき大したことじゃないさ」
「礼はさっき聞いた」
「……ホント、お前さんはつれないねぇ」
 クロードは、ドクターを無視するかのように、ベッドの横に歩み寄ってきた。そしてスプリングの足側に腰を下ろした。
「……なあ、お前。本当に思い出せないか?」
 突然話題が振られる。クロードは足を組んでこちらを見る。
「…え、あの………」
 二人から同時に注がれる視線が痛くて下を向くしかなかった。
――なぜだろう、目頭がやけに熱く感じる。
 懸命に何かを思い出そうとしても、焦るばかりで思考がまとまらない。せめて名前の綴りが浮かんでこないか考え右手の指を動かしてみるが、虚しく宙を空くだけだ。
「はははっ……」
 不安な気持ちをかき消すため、声を出して笑ってみる。それは到底笑い声のレベルではない。両手を強く握り締める。
――僕は、いったい何者なんだ……
「……ご、ごめんなさい」
 そう声を絞り出すのが精一杯だった。他に言うべき言葉があったかもしれないのに、何も浮かんでこない。彼は、自分が置かれた立場の異常さに今更ながら気がついた。
 普通ならその場所には、記憶というものが埋まっていたはずだ。でもそこに今あるのは……底なしの闇。
 こめかみに汗の粒がにじみ出て、拳の上に落ちる。
――……誰か助けて
 救いなんてあるわけがない。でも、助けを求めてやまない。しかし、それは突然降ってきた。本当に予期もしないほど突然に……
「……『フルール』だ」
 クロードが呟いた。
「へっ?」
 突然言われた単語を聞き取ることができなかった。俯いていた顔を持ち上げた。そこにはスプリングの上で足を組んで座っているクロードが視界に入る。
「当分の間、お前の名前は『フルール』だ」
「フルール? ……それは、僕の名前、ですか?」
「不満か? だったら他のに……」
「いいえ!」
 ――それがいい
 そう素直に思った。
「ならそれで決定だ」
「はい」
「よろしくな、フルー」
 フルーと呼ばれ、頭にクロードの手が置かれる。
「はっはい、こちらこそ、よろしくお願いします!」
「……ローレンお前さ、俺よりセンスなかったのな」
 今まで黙って様子を見ていたドクターが、クロードに向かって呟いた。
 ドクターは、診察のときは『私』と自分を呼んでいたが、クロードと話をする時は『俺』になるようだ。
「悪かったな」
 クロードの表情は実に不機嫌そうだ。
「……こういうのは苦手なんだ」
「あのクロード、僕は気に入りました!」
 フルーの頭から手をどかすと、クロードはベッドから立ち上がった。
「ローレン、フルールの意味は『花』だろ?」
「ああ、こいつを見つけた場所が辺り一面花畑だったからだな。そこから取った」
「なるほどね。ということはあだ名はさしずめ『花ちゃん』だな」
「ドクター、あの僕は男ですけど?」
「別にいいじゃないか、似合うから!」
 ドクターそう言うと盛大な笑い声を上げる。
「……酷いなぁ」
 ドクターに抗議をするが、何故か一緒になって笑ってしまう。これは先ほどの嘘くさい笑い声ではなく、本当の笑みだ。
 なぜだろう。名前を貰った瞬間、フルーは心の中で重く圧し掛かっていた物が軽くなった気がした。これは気のせいかもしれない、でも笑顔を作る元気が生まれたのは事実だ。まるで、魔法を掛けられたような不思議な気分だった。
「花ちゃんを花に例えると、髪の色から察するにタンポポだな」
「タンポポ……」
 フルーの髪は、金髪というには少々黄色みをおびすぎている。おまけに毛先はオレンジ色が強い。確かに色だけを見るならば、タンポポという表現は正解だ。
「タンポポは凄いぞ。別目『ダン=ド=リオン』ライオンの歯という意味だ」
「強そうですね」
「だろ! おまけに薬にもなる優れものだ! さて、和んだところで問診を続けようか」
「はい、よろしくお願いします」
「なあ、ドクター」
 ドクターと楽しく談笑をしていると、今まで黙っていたクロードが会話に入ってきた。
「なんだローレン?」
「その問診とやらが続くようなら、俺は下に降りていていいか?」
「ああ、構わないよ」
 クロードはドクターの言葉を聞くと、背を向け扉の方に歩き出した。
「仕事部屋にいるから、終わったら声をかけろ」
「了解、そうそうローレン、俺のコーヒーはブラックでいいからな」
 クロードは丁度扉のドアノブを握ったところだったが、こちらを振り返る。
「……家には、お前に出す茶など置いてない」
 そう言うとクロードは、さっさと扉の外に出て行ってしまった。
「言ってくれるな」

 クロードが退出してから、フルーはドクターを質問攻めにした。
「この街はどういう所なのでしょうか?」
「大陸[k1]の南側にあるアルデゥイナという街だ。正式名は独立自治商業都市アルデゥイナと長ったらしい。アルデゥイナは女神様の名前なんだとさ」
「へぇ」
「東の海から太陽が昇ると、この街は目を覚ますんだ」
 フルーはドクターが自慢げに話す街の様子に耳を傾けた。女神の名を頂くこの街は、人の活気に溢れているそうだ。海に面し広い平地は、大型の船が着ける港になっており、北側の平野には隣国へと続く街道と鉄道が敷かれている。斜面が付いた土地には、白い壁の建物が建っていて、住居や商店が立ち並ぶ。
 フルーは目を瞑りながら街を想像する。実際に見てみたいと思うが、今の身体の状態では、外に出るのは当分無理そうだ。少し残念に思う。
「早く元気になりたい気分になれたかな?」
「はい、早く外に出てみたいです」
「その意気だ……花ちゃん、ローレンの奴は、口では悪態をついてみせたりするが、結構律儀で優しい奴なんだ」
「それは、なんとなく分かるような気がします」
 クロードの態度は素っ気無く、一見すると冷たく見えるが、対応はとても丁寧で親切だ。フルーはクロードをとても悪い人とは思えなかった。
「あの、ひとつ疑問に思っていることがあるのですが」
「なんだい?」
「ドクターとクロードとはどういった関係なんですか?」
「関係と言われると返答に困るな」
「変なことを聞きましたか?」
「いやいや、あいつとは付き合いが長いんでな。今更関係と言われても良い言葉が……浮かばないな」
「そうなんですか」
「ローレンからしてみれば、俺なんか生意気なクソガキのままなんだろうな」
「へっ、ドクターがクソガキですか? クロードじゃなくて?」
 ドクターはフルーの方を見て、目をぱちくりさせたかと思うと数秒沈黙した。
「そうか、花ちゃんはローレンの正体聞いていないのか」
 正体とはまた大仰な言い方だと思った。
「クロードに何か秘密でもあるのですか?」
 いったい彼に何があるというのだろうか。
「なーに、大した事じゃないから本人に聞くといい」
 ドクターはただ楽しそうに笑うだけで、教えてくれようとしない。
 ――すごく気になる。
 
 その後、いくつか質問をしていると、二階の部屋に微かだがコーヒー豆を挽いた香りが流れ込んできた。
「そろそろ、コーヒーが入るかな。ほらな花ちゃん、ローレンは律儀だろう」
「本当に」
 フルーは小さく笑うことでドクターに返事をした。ドクターは一緒に一階に下りてみないかと提案をした。
「トイレ洗面は一階にしかないからな、その足で歩く練習だ」
 そういうので、多少無理があったがベッドから立ち上がるとドクターの肩を借りて部屋の外に出てみた。
 足元はまるで雲の上を歩いているように不安定で、一歩一歩に気持ちを入れないとすぐ倒れてしまいそうになる。おまけに体のあちこちが痛む。ドクターは途中、引き戻すかと聞いてきたが、痛みより部屋の外への興味の方が勝っていたので、首を横に振った。
 扉を開けると、当たり前だが廊下があった。廊下にはこの部屋以外に四つ扉がある。そして廊下の中央に階段が設けられている。この家は想像していたよりもかなり広いようだ。
 一階に行くには、この少々急な階段を下りなければならない。フルーは一段一段手すりとドクターの肩を借りて、降りてゆく。それだけの事なのに額には薄っすら汗が浮いてくる。
「リビングに行こう。こっちだ」
 ドクターはこの家の間取りをよく熟知しているようで、階段を下りるとリビングにつながる扉を開いた。
 リビングは、とても明るく暖かかった。春先の夕方は冷えるので暖炉に火を入れたのか、室内から火がチロチロと燃える音が聞こえてきた。
「ドクター、動かしても大丈夫なのか」
 また気配もなく、クロードは突然現れる。だいぶ慣れてきたので、最初よりは驚かなくなってきた。ドクターはクロードの方を見ると、気の良い笑顔を向ける。
「リハビリ、リハビリ。それでこっちでいいんだよな?」
「ああ、リビングに用意してあるぞ」
 リビングに入ると、暖炉の前に応接セットのソファーが置かれている。長いソファーに小さいものが二つ。木の床に落ち着いた色合いの絨毯が引かれている。
 この部屋は庭側に大きく窓が作られており、庭の緑を見るのに最高のロケーションだ。
「花ちゃんは、ここがいいかな」
 ドクターは、フルーを一番大きいソファーにゆっくりと座らせて、自分はその隣に腰を下ろし彼の背中を支えた。
「ありがとうドクター」
 ソファーに合うローテーブルの上には、整然とコーヒーカップが並んでいた。
「残念だけど、花ちゃんはまだ刺激物はダメだからね」
「はい」
 フルーは素直にドクターに了解の返事をした。しかし本音は少々残念でもあった。部屋の中に漂うコーヒーの香りはとても魅力的なのだ。ドクターはコーヒーカップにコーヒーを二人分注ぐ。それを羨ましげに見ていると、目の前に大振りのマグカップを差し出された。
「お前はこれな」
 クロードがフルーの前にマグカップを差し出した。
「熱いぞ、持てるか?」
「ありがとうございます」
 フルーは恐る恐る手を差し出すとカップを受け取った。カップの中身をのぞくとそれは茶色い液体が並々と注がれている。
「具なしの野菜スープだ。回復食だから味付けは薄めらしいぞ」
 クロードは、カップの中身を説明してくれた。フルーはカップの淵に鼻を付けた。熱い湯気が顔にかかる。カップの湯気を鼻から吸い込むと、野菜とブイヨンの良い香りが鼻の奥に充満する。
「いただきます」
 熱いので何度か息を吹きかけてから、ちびりちびりと口に含んだ。
「……おいしい」
 喉の奥に薄めのスープが染み込む。味付けは薄めと言っていたが、今の自分には丁度よかった。たぶん久しぶりであろう塩気のある暖かい食べ物の味に、涙が出そうになり、声が震えた。
 ドクターは、その横でコーヒーカップを取り上げると、暢気にコーヒーをすする。
「う〜ん、ローレン豆変えたか?」
「……気分転換に」
「ところでローレン、これからどうする?」
「何がだ?」
 クロードは、自分のカップを取り上げると、ドクターの真向かいの席に腰を下ろした。
「花ちゃんだよ、これからどうするんだ?」
 クロードは、コーヒーを口に運びながらソファーに寄りかかった。
「……そうだな、しばらく家に置いておくしかないだろう。その先は、その時考えるさ」
「やっぱりそれしかないか」
 フルーは自分の対応を話し合う二人に割って入る。
「あの、そこまでご迷惑はかけられません!」
 クロードはドクターからフルーに視線を移す。
「じゃあ、どこか行く当てでもあるのか?」
 厳しい正論が飛ぶ。
「それは……」
 あるわけがない。名前さえ思い出せない現在の状態で、行く当てなどない。
「ならここにいるしかないだろう」
「はい……」
 フルーはそれ以上反論することは出来なかった。今は、この場にいる二人に従うしかない。
「そうなるとだ。一つ確認しておきたいことがある」
 クロードが改まった口調で、フルーに語りかける。
「確認、ですか?」
――何だろう。
「ここは俺が住んでいるわけだが、『魔族』と同居するのに抵抗はあるか?」
「『魔族』ですか?」
「そうだ、魔族」
 魔族とは五百年ほど前人間領を植民地として支配していた種族の事だ。人間領のありとあらゆる物を支配し利用し虐げていた。今でも各地で悪の象徴としての伝承が残る種族だ。五百年前突然自分達の領内に戻ってそれ以降出てこなくなった。今では人間領で魔族をみることはない。そんな存在はいなかったのではないかという意見さえ出ているほどだ。
「花ちゃん、これがローレンの正体だよ」
 ドクターが会話に助け船を出す。先ほど二階で話した事を指しているようだ。
「……まさか!」
「そう、俺は人間じゃない魔族だ」
 フルーは、驚きのあまり手に持っていたカップを取り落としそうになった。少し中味が手の甲に掛かる。
「あちっ!」
「大丈夫か?」
「あ、はい……それより、本当なんですか!」
「ああ」
「花ちゃん本当だよ。ローレンはこの街に五十年ぐらい前から住んでいるらしいが、俺が子供の当時から外見が変わっていない」
 思いもしなかった事実を聞かされて驚くばかりだ。
「じゃあクロードは、本当は幾つなんですか」
「歳か、……途中から数えていないからな。たしか二百五十くらいか、それ以上だったはずだ。これでも魔族領では若手だぞ」
「に、にひゃく…ごじゅぅう?」
 とんでない数字を聞いて、フルーは大きな目を更に大きく見開く。
「ありゃー、花ちゃん驚いちゃったか」
「ドクター普通はこういう反応をするのが至極当然なんだ」
「そうなのか?」
「この街の住人は、俺の正体を忘れているとしか思えないほど、魔族使いが荒い」
「それはお前さんが人、じゃなかった魔族がいいからだろ」
 ドクターはお得意の笑い声を上げる。クロードはドクターの笑い声を迷惑そうな顔で受け流すと、フルーの方に向き直る。そして真面目な顔で語りかける。
「フルー、もし俺が恐ろしいというなら、この家以外に住む場所を考えよう」
 フルーはクロードをじっとみた。
――クロードと自分、どこが違うだろうか?
 何も言われなければ、クロードが魔族だと気づかなかった。彼は人のような気配は感じない、鋭い目線で見つめられれば圧力のようなものを感じる。だがそれが恐ろしいかと聞かれれば……恐れはない。反対に目を覚ましたとき、傍に居てくれると安心さえした。ならば答えは決まっている。
「怖くないです」
 フルーはスルリと返答を返した。
「面と向かって言われなければ気づかなかったくらいですから」
 クロードは自分を真っ直ぐ見てくるフルーを見て、視線を逸らしてため息をつく。
「はぁっ……また魔族を恐れない人間が増えたか」
「花ちゃん、居候試験合格だね」
「そうなんですか?」
「……とりあえずよろしくなフルー」
「は、はい! よろしくお願いします。動けるようになったら何でもやります!」
 フルーは、頭をペコリとさげた。
「まあ、そのつもりだ。仕事の雑用を手伝ってもらうぞ。うちは働かざる者食うべからずだ」
「ローレンのところは、沢山仕事があるからな」
「お手柔らかにお願いします」

 この日この瞬間から、『フルール』という名の少年の人生が始まった。
 
 
 

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